1995年5月アーカイブ

13世紀のカンボジアのアンコ-ル王朝の生活を記録した中国人、周達観による「真臘風土記」(和田久徳訳注/平凡社)には、当時チャンパの国からアンコ-ルに織布が入ってきていることが書かれている。中国の3世紀ごろに記された古書、「南州異物志」(『太平御覧』820年所収)の中に、五色の斑布として、木綿の絣と思われる布が南蛮諸国(東南アジア)に於て作られていたことが記されている。これらのことは、チャンパ国とよばれた人々の中に古くから織物の伝統があったことを示しうる物である。1471年チャンパの首都ビィジャヤが陥落した後、チャムの人々はカンボジアに逃れアンコ-ルの王の保護下に入った。そして、一部のチャム人はアンコ-ルを攻めたアユタヤ王国に迎えられて移住している。男達は南海貿易の船乗りとして活躍した伝統を生かして、王宮防衛軍となって新しい王に仕え外人部隊として活躍した、また、女達は伝統の織物に励むのである。彼等は職能(技能)集団として、それぞれの王朝に迎え入れられている。アユタヤ王朝がビルマ軍侵入により滅亡した後は、一部は新たに起こったラタナコ-シン王朝の水軍となって、現在のバンコクに移住している。かのタイシルクを有名な布として世界的に広めたジム・トムプソンが注目しパ-トナ-とした織手たちが、このバンコクに暮らすチャ
ムの人々の末裔であった事は意外と知られていない。

カンボジアのメコン河沿いに、ベトナムのメコンデルタの中で、そしてタイのバンコクの喧騒の中で、それぞれ暮らすチャムの末裔達。布を織り出す糸のように、流浪の民として、苦難の歴史を背負いながらも職能集団として、また「異教徒」としてのムスリムとして自らを位置ずけながら、国家や王朝にかかわらずしたたかに生き続けてきた人々の姿がそこにはあるように思えた。

サッカリアさん、61歳。彼は40年前、カンボジアのプノンペンに近いカンダ-ル県のやはりメコン河沿いの村から、奥さんの出身地であるこのチャウドックのムスリムの村に、結婚と共に移ってきた。父系原理が優先されるイスラ-ム法の教えと異なり、チャム社会の強力な母系性に基づく母方居住である。母系性を取るモスリムは、この地域以外にも、マレ-シアやスマトラにも暮らしている。それらは国を失ったチャム人の移民先であり、彼等が難民として受け入れられた地域でもある。

彼と、一緒に暮らしている一番下の娘さんの結婚式の写真を見せてもらった。新郎新婦は、アラブの王様(王妃)のような正装をしている。参列者の何人かは、伝統的なカンカッと呼ぶ絣の腰巻きを着ている人が見られる。その他には、アオザイを着ている人もいるが、多くはマレ-シア人と思えるような服装である。80歳のハワ-さんや60歳のア・ビタスさん。この二人のおばあちゃんは共に若い頃には、自分や家族のために布を織っていたという、しかしハワ-さんは結婚してからは織物をやめてしまったという、ア・ビタスさんは25年前、戦争が激しくなってきた頃に、糸が手に入らなくなりそのままやめてしまったという。この村で織られた絣や紋織りの布を見せてもらいながらも、彼等の話しの中に、今の若い世代は服装もベトナム化して来たことで、伝統の布を着ることが少なくなってきたこと、そのために外見だけではチャム人かどうかの区別はつかなくなってきたという話しが出た。唯一モスクに行く時に、シェと呼ぶ布を被るだけの、おおらかなムスリムである。

モハマッドさん63歳、彼はプノンペンの近くのムスリムの村に暮らしているが、たまたま私が訪ねた時、この村に来ていた。そして私がカンボジアのコンポムチャム県の村の話しをすると、その村は私が最初に訪ねたチャム・ムスリムの村なのだが、なんと彼は若い頃その村に10年程(1963-1973)暮らしていたという。その後、このチャウドックの村にも暮らしていたことがある。そして今は、再びカンボジアに暮らしている。彼は、布を市場で仕入れ村を回りながらの行商をしているからかもしれないが、このメコン河を定期的に回っているようであった。コンポムチャムのチャム族の村でもそうであったが、マレ-人の商人(仲買人)が定期的に村に訪ねてくることや、家族がマレ-人と結婚して今はマレ-シアに住んでいる話を聞いた。そして、ポルポト時代に破壊されたモスクの再建のために、マレ-シアに寄付を募りにいっている人など、メコン河からマレ-半島へ、国家の枠組みを超えた彼等の持つ独自のネットワ-ク、そんな姿がチャムの人々の姿に重なっていく。

布でつながる人々

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これ以外にも、カンボジアと共通する緯糸絣の布がこのベトナムの地で織られていた。チャム語でカンカッ(絣)という布は、カンボジアではサンポット・ホ-ルと呼ばれている伝統的な絣である。この布はこの地域のクメ-ル系の人達にも販売されおり、もちろんムスリムの彼女たちも祭りや結婚式の時に着用する伝統的な布である。柄は、カンボジアで織られているものと同じで、過去においては天然染料からもたらされた伝統的な5色(黄、赤、緑、藍、黒)の配色で、花柄と幾何学模様の組み合わさった柄などが中心で、カンボジアで織られている物と全く同じである。これらの絣は、同じ系統のものが東北タイのクメ-ル系の村人によって、同じようにホ-ルと呼ばれて織られている。メコン河の流れに沿って、東北タイ、カンボジア、そしてベトナムのメコンデルタが絣の布を通じてつながったことになる。

この村では、カンボジアのチャムの村と同じように普段着としてのムスリム用のサロ-ンが主に織られている。木綿だけの物もあるが、この村では木綿と絹の「混織」のサロ-ンが多く織られている。これは、経糸が生糸で、緯糸に生糸と木綿を交互に縞柄で織り込むもので、イスラ-ム法により純絹の布を着用することを禁じられている敬虔なムスリムのために、インドなどでも「マシュ-ル絣」とよばれて織られているものである。サロ-ンの柄は、格子柄により構成されていて、インドのマドラスチェックに似ているが、他の一般のサロ-ンにはない、ムスリム独特の細いストライプの柄が格子柄の中に20センチ程しっかりと織り込まれている。何通りかある柄の中で、カンボジアの村では見かけなかった絣の技術を用いた、波模様のサロ-ンも織られていた。

織り上がったサロ-ンはカンボジアやベトナムそしてマレ-シアのムスリムのための市場に、仲買人を通じて販売されている。私が、何軒かの高床式の家の階下に置かれた織機を見て回っているとき、小さな子供達が後をついて来ていた。よく見ると、その子供達もムスリムのサロ-ンを腰に巻いている。その配色は、カンボジアのクラチェに近い、メコン河沿いのムスリムの村で織られていたのと同じような紫や藍色そして緑色の格子柄のサロ-ンであった。

使われている生糸は、ホ-チミンから180キロ程、有名な高原の避暑地ダラットの手前、山間部にあるバオロックというベトナムの養蚕の中心地で生産されたものだという。戦乱の中で、養蚕のほぼ壊滅してしまったカンボジアの村人も、同じバオロックの生糸を使っていた。糸の染色は専業化されているようで、一軒の家に男性が中心になって染色に励んでいた。染料は化学染料がおもで、天然染料は唯一絹のカントゥアンを織る時に、生糸の黄色の下染めにブロフ-とチャムの人々が呼ぶガンボジの樹皮を使用している。クメ-ル語でも同じ呼び方をする。これは、カンボジアのクラチェの近くのチャムの村や東北タイのクメ-ル系の村人も、同じやり方で今も下染めに使っている。チャウドックのチャムの人々は、この樹皮をベトナム中部の山間部から取り寄せている。

ベトナム語で織機のことを「コォンタゥ」と呼ぶが、チャム語では「キ」と呼びこれはタイ語の織機を呼ぶ「キィ」と類似してる。ちなみにクメ-ル語では織機のことを「ガィ」と呼び、東北タイに住むクメ-ル系は「ガイ」、ラオ系の人々は「フゥ」と呼ぶ。

ムスリムの人達は、自分達の村をソイと呼ぶ。ジャオザンからメコン河本流に面するタンジャオの町までの約17キロの間にも幾つかのチャム・ムスリムの村が点在し、そこにはモスクがある。しかしそこは、カンボジアのようにムスリムだけの村ではなく、ベトナム人や中国系の人達との混住した集落である。

船着き場の側の村で、高床式の家の梯子の所に腰かけ、外行く人を眺めていたムスリムの小柄なおばあちゃんに声をかけてみる。よそ者の私達に彼女は「カンボジアから来たムスリムか」と尋ねてくる。私は、カンボジアの調査で知り合った青年に同行してもらっていた。彼は英語の他にベトナム語もできる、もちろん相手がクメ-ル人であればクメ-ル語も。彼が、おばあちゃんにカンボジアから来たと言ったからである。おばあちゃんは奥の家の主の年配の男性に引き合わせてくれた。彼も最初に、私がムスリムであるかどうかを尋ねてきた。ムスリムの人々同士のあいさつの作法でもあるのか、突然の来訪者に少し戸惑っている様でもあった。彼に、カンボジアでチャムの人々の織物に出会ったこと、そして、ベトナムで織られているチャムの織物を求めてここまでやって来たことを説明すると、彼は織物のある村まで私に同行してくれるという。

彼に連れられ訪ねた村の一角は、丁度、京都の西陣の路地裏にでも迷い込んだように、織機のカタン・カタンというシャトル(杼)を飛ばす音が、あちこちの家から聞こえてくる。高床式のそれぞれの家の階下には2台か3台の織機が並び、木綿のムスリムのためのサロ-ン(腰布)やクロ-マ(万能タオル)が若い織手によって織られている。この村にはカンボジアなどで使われているような伝統的な織機はすでになく、100年程前に現在のフライング・シャトル式の織機に変わったとのことであった。400家族の村の中に、現在約100台の織機がある。

この村ではカンボジアでラバックと呼ばれる、紋織り総柄の絹布も織っているという。彼等は、チャム語でカントゥアンと呼んでいる。その布を見て驚いた。全く同じ柄の同じ色の古布をプノンペンの市場で買っていたからである。緻密に織られたその細かい花柄のジャガ-ド織りを見た時、とても魅かれた布である。13枚の綜絖(そうこう)で柄が織られている。カンボジアで使われている織機とは異なり、足踏み式の簡単なジャガ-ド式の織機が、高床式の家の中に据えられている。家の中に、据えられているのは高価な絹を織っているためだろうか。現在村でこのカントゥアンを織れる女性は僅か8人だけで、近いうちにホ-チミンで開かれる物産展に招待されているという。そのために、昔使っていたクメ-ル式の伝統的な織機を今新たに再現、作っている所だと説明してくれた。壁に掛かったカレンダ-の裏に簡単に書かれた織機の図面には、奇麗な装飾が施されている、不思議に思って尋ねると、昔からのものではなく、物産展のために新たに考えたものだそうだ。

ロンスエンから約一時間半、チャウドックについたのは朝10時半頃である。途中すれ違うオ-トバイや車も多く。屋根にまで荷物を満載にした、ホ-チミンやデルタの町カント-との間を行き来する長距離バスに何度か出合う。町の入口には大きなバスタ-ミナルがあり、正直、想像していたよりも大きな町だった。タイの農村部の郡庁所在地クラスの町よりも、店の数品物共に多く、町としての体裁を保っている。現在のカンボジアであればさしずめ県庁所在地クラスである。メコンデルタの中でも、交易の要所として古くから発展してきたのであろう。また、それを支えるだけの商いがそこには有るのであろう、まさにメコンの恵みを感じさせる。

町はソンハウ(もしくはハウザン)と呼ばれる川に面して広がっている、この川はメコン河の支流でプノンペンから始まるバサック川のベトナム名である。カンボジアとの国境まではあと数キロである。町の中心からは少し離れているが、ハウザン(川)沿いに、ハンチャウという立派なホテルがある。ロビ-に続くレストランからは、川沿いの町が一望でき、川からの風が涼しい。このホテルには、ベトナム人用(18$)と外国人用(32$)の料金表の他にカンボジア人用(22$)の料金表があるのが、いかにもカンボジアの国境の町らしい。町の中心には観音様を祀った一角があり、線香を持った手を高く掲げて熱心に祈る人の姿も見かけられる。ここは町の人々の憩いの場所にもなっているようで、陽が暮れるとベトナム式というのか小さな椅子を並べた屋台が沢山出る。その近くには、古い年代物の鉄骨構造の市場があり、中には屋台が集まったような食事を供する店が所狭しと並んでいる。漢字の表記も見え、再び華僑が公然と自由競争の中で力を発揮していることが見えてくる。市場の品物は豊富で、中国製やタイ製の物も混じっている。また、川沿いには別に生鮮品の市場があり、本当に所狭しと野菜や果物、乾物、肉類等が並んでいる。しゃがんで、竹のザルの中に野菜などを並べて売る人や買い物客の中には、頭にクロ-マをタ-バンの様に巻つけたチャム族のおばさんも交じっている。

街の西南約5キロには、サ厶山(ヌイ・サム)と呼ばれる信仰の山がある。その麓には幾つかの仏教系のお寺があり、それぞれ参拝者で賑を見せている。門前町よろしく土産物店や食堂が並び、ベトナム人が遠くからはるばる参拝に来るようである。私が訪ねた時もその一つバァチュア寺では団体で参拝しているグル-プが、何頭かの飴色に焼かれた子豚と果物の山をお供えしながら、派手はでしく賑やかにお線香を上げている最中であった。

ここから、西にさらに20キロ程行くと、カンボジアのタケオ県に通じる陸路でのチェックポイントがある。その周辺には、ベトナム化したクメ-ルの人々も多く暮らすが、養蚕や織物はすでに25年以上前に戦乱の中で途絶えていた。

川向こうにモスクがあると聞いたので、町のはずれにあるフェリ-乗り場からハウザン(川)対岸のジャオザンに渡る。このフェリ-は、丁度車一台が乗る大きさで、あとはオ-トバイが5-6台そして15人程の乗客でほぼ一杯になる。川幅は広く500メ-トル以上はある。向こう岸に着くと、ペアと呼ばれるムスリムの男がかぶる白い帽子姿の男達が、船着き場の茶店で談笑しているのが目に入る。船着き場のそばにも古いモスクがある。道路沿いにはベトナム人や中国系の家に混じって、木造の高床式の家が並んでいる。家の形は、カンボジアのチャムの村で見かけたものと全く同じ作りで、入口は小さく、梯子のような階段がついている。何軒か古い家もあり、独特の幾何学模様の装飾が施されていて奇麗な形をしている。

市場のあるチャウドックの中心部では、頭にクロ-マを巻いたムスリムの女達は見かけたが、ペア姿の男達は見かけなかった。女達の方がやはりたくましいのだろうか、村に帰ってきたところなのか、ポケットからペアを取り出しかぶる男の姿を見かけた。その姿はまだ充分に、自由とは言い切れないこの国の現状なのか、それとも自由になってきたが、変化に上手くまだなじめていない彼等の生活を示しているのだろうか。今年の5月16日のタイの英字紙バンコクポストは、1975年以来20年間閉ざされていた、ベトナムに住むムスリムのメッカ巡礼がベトナム政府の同意により再開されたことを伝えている。

豊かなメコンデルタ

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翌朝早く、ロンスエンの市場に出かけてみる。並ぶ品物は豊富だ。日常食となったフランスパンを売る屋台もある。すげ笠姿のベトナムの女達に混じって、カンボジアでクロ-マと呼ばれる布(万能タオル)を頭にまいたチャムの女達が市場にしゃがんでいる。ベトナムの女達の服装は、ほとんどが上下揃いの無地のモクマオ(もしくはモクヌッド)と呼ばれる、私達から見れば一見パジャマのような民族衣装である。モクマオはベトナム語で「単一の色」という意味なのだが、それでも良く見ると若い女性の場合は上着に折り返しや、レ-スをアクセントにしたデザインの物を着ていたりする。

アンザン省の省都ロンスエンから国境の町チャウドックに向かうにつれて、周囲には地面に直接建てられたベトナム式の家に混じって、高床式の家屋が目につくようになった。高床式といっても高さ1メ-トル程の物だが、それは少なくともこの地域に、他のベトナムとは違う文化的背景が残されている事を物語っている。家々の床下には、小さな川船が格納されている。川沿いの船着き場に、赤いレンガが野積みされている村があった。道路から少し奥に入ると、日干しレンガを焼くための、窯が並んでいる。7メ-トル程の高さで、方形にせり出したレンガ作りの窯はくさび形に開いたその開口部とともに、中に入るとチャムの遺跡の祠の中にいるような錯覚に陥る作りの物である。

今年の1月から5月まで、絣などに代表されるカンボジアの伝統的絹織物の現状を実地調査する機会に恵まれた。これまで10数年私は、タイ東北地方に住むクメ-ル系の村人の織る絣にかかわってきた。カンボジアの村をまわるうちに、私はタイの絣のル-ツが、東北タイに暮らすクメ-ル系の人々の伝統の中にあること、そしてそれはカンボジアにあったという事実をあらためて実感した。そして、カンボジアで手織物の残る村を訪ね歩くうちに、チャム族ムスリムの女達が織る、サンポット・ホ-ル(クメ-ル語で、サンポットはスカ-ト、ホ-ルは絣のこと)と呼ばれる伝統的なカンボジアの絣に出会った。

絣の歴史は古く、インドに於ては有史以前にさかのぼるとされている。特にインドのグジャラ-ト地方のパトラと呼ばれる経緯糸絣の布は、12-3世紀の熱帯モンス-ンに乗った海洋交易の中で、重要な交易品として取り引きされていた。13世紀には、パトラはマレ-半島に輸出されていた記録がある。17世紀になるとイスラム商人に代わって、覇権を手に入れたヨ-ロッパの商人により、インドネシアやアユタヤの王族との交易品として持ち込まれた。パトラは、余りにも精緻で複雑な制作工程とその柄に織り込まれた宗教的意味合いとにより神秘的な布とみなされ、当時の王族や上流階級の社会的、宗教的必需品として位置ずけられた。18世紀には、パトラ写しと呼ばれる布が、インド以外のインドネシアなどに於ても作られ始めた。カンボジアに於ても、それらの布が織られ、アユタヤへの交易品とされていた。今日、カンボジアに伝わるサンポット・ホ-ルがその流れをくむものであることは間違いないであろう。しかし、インドおけるパトラが、平織り組織で織られているのに対して、カンボジアの緯糸絣は綾織である。このことはカンボジアにおける絣が、影響を受けながらも、柄・技法に於ても独自に発展してきたことを物語る。

チャムのムスリムの女たちはカンボジアの絣以外にも、ムスリムのための木綿とシルクの混織のサロ-ン(腰布)を織り、それを同じイスラム教徒のマレ-シアにも、これもまたムスリムの仲買人を通じて販売している。カンボジアに住むチャムの人達は約6万人、クメ-ルの人達とは違うイスラム社会独自のネットワ-クを持ちながら生活し、主にメコン河やトンレサップ湖に通ずるトンレサップ川沿いに集落を作って暮らしている。主に漁業に従事し、農業中心の地域のクメ-ル人とは職の住み別けがなされていた。だが、ポルポト政権(1975-1979)によるクメ-ル民族主義と宗教の否定により弾圧の対象となりチャ ム語は禁止され多くのイスラ-ム指導者も多数処刑され、民族差別に抗議したチャム族ムスリムも大量に処刑されたという。約2万人は難民となってカンボジアを去り、アメリカやフランスあるいは同じムスリムのネットワ-クを通じてマレ-シアに受け入れられた。弾圧前には15万人いたとされるチャムの人々も、今は6万人が残るのみである。

カンボジア絣の調査の過程で、ベトナムのメコンデルタにも古くからチャム・ムスリムの人達が暮らしているらしい事もわかった。メコン河中流沿いに広がるタイ東北地方の、その支流にあたるム-ン河沿いに暮すクメ-ルの人達とカンボジアのクメ-ルの人々、そしてメコン河の流れに沿ってカンボジアに暮らす、チャムの人達とベトナムのチャムの人々。それぞれの国に暮らすそれぞれの人々が、メコン河の流れと織物を軸にして、突然繋がり始めたように私には思えてきた。そして、ベトナムのメコンデルタに暮らすチャムの人々とその織物に出会うために、私はチャウドックを目指しているのだ。

このロンスエンの街の近くには、2世紀頃メコンデルタに生まれた「扶南」と呼ばれた国の都オケオの遺跡がある。遺跡からは当時のロ-マ帝国の金貨なども出土し、扶南が東西交易の中継点として、このメコンデルタの地に栄えたことを物語っている。その出土品などを展示した小さな博物館がこのロンスエンの街にはある。中国人の記録の伝える所によれば、扶南はもと裸の蛮人の住む国であって柳葉という女王が統治していた。ある時、異郷の混慎なる者が、商船にのってこの国にたどり着き、柳葉と結婚し、服を着ることを土地の人に教えて、扶南の最初の王になったとある。その後、6世紀の中頃、現在のラオス南部メコン河本流の辺りにあった「真臘」の国が、その勢力を拡大してメコン河を南下し扶南を圧迫、7世紀には併合するにいたる。その後真臘は分裂するが、9世紀初めクメ-ルの王により統一され、アンコ-ル王朝が始まる。それ以降このメコンデルタは、17世紀の末南下してきたベトナム人によって併合されるまでクメ-ル(カンボジア)人の土地となる。それ以降、新たにメコンデルタに入植してきたベトナム人、そして中国人と同化しながらも、今日でもベトナムに於ける少数民族として、7万人以上のカンボジア人が「クメ-ル・クロ-ム」と呼ばれながらメコンデルタを中心に暮らしている。このアンザン省にはこれらカンボジア人と共に流浪の民、チャムの人々が多く暮らす地域でもある。

熱帯モンス-ンを利用した南インドから中国への交易、いわゆる海のシルクロ-ドの中継拠点としてインドシナ半島は重要な位置を占めてきた。なかでも、その交易と密接にかかわってきたのが2世紀から17世紀にかけてベトナム中部の海岸地帯に、栄えたチャンパの王国である。チャンパ国は複数の民族によって構成されていたとされるが、その中心を担っていたのがチャムの人々である。南下するベトナム(キン族)、また隣国クメ-ルとの興亡を繰り返しながら弱体化していく。15世紀後半のベトナムの侵攻によって王国の首都は陥落、アンコ-ル王国などに保護を求めてチャム人は移住していった。それ以降ベトナム南部の一地方勢力となったチャンパの末裔たちの多くは、しだいにベトナム社会の中に同化していったが、その一部は周辺諸国に再び難民となって移住を繰り返していった。

人口7千4百万のベトナムに於て、多数派キン族(ベト族)以外に、53の少数民族があるといわれている。その中で、現在ではチャム族としてのアイデンティテ-を持つ者は僅かに約8万人、その多くは、ベトナム中部海岸地帯のトゥアンハイ省とメコンデルタのアンザン省に集中している。トゥアンハイ省に住むチャム人のおよそ三分の二はヒンドゥ-教徒(ブラ-マニズム信奉)、残りは「バニ」あるいは「チャム・バニ」と呼ばれる土着化したチャム族ムスリムで、必ずしも厳格なイスラム教徒とは見なされていないようである。それに対してアンザン省に住む約1万5千のチャム人は、多数派のスンニ派イスラム教徒である。アンザン省の中でも特に国境の町チャウドック周辺に集まっている。ヒンドゥ-(インド)文化の影響を受けながら、独自の芸術文化を開花させたチャムの人々が衰退期(16-17世紀)にイスラム化していく過程は、今日に至るまでのチャムの人々の数々の受難の歴史を物語っているように思える。

 13 世紀のカンボジアのアンコール王朝の生活を記録した中国人、周達観による「真臘風土記」(和田久徳訳注 / 平凡社)には、当時チャンパの国からアンコールに織布が入ってきていることが書かれている。中国の 3 世紀ごろに記された古書、「南州異物志」(『太平御覧』820 年所収)の中に、五色の斑布として、木綿の絣と思われる布が南蛮諸国(東南アジア)に於て作られていたことが記されている。

 サッカリアさん、61 歳。彼は 40 年前、カンボジアのプノンペンに近いカンダール県のやはりメコン河沿いの村から、奥さんの出身地であるこのチャウドックのムスリムの村に、結婚と共に移ってきた。父系原理が優先されるイスラーム法の教えと異なり、チャム社会の強力な母系性に基づく母方居住である。母系性を取るモスリムは、この地域以外にも、マレーシアやスマトラにも暮らしている。それらは国を失ったチャム人の移民先であり、彼等が難民として受け入れられた地域でもある。

 これ以外にも、カンボジアと共通する緯糸絣の布がこのベトナムの地で織られていた。チャム語でカンカッ(絣)という布は、カンボジアではサンポット・ホールと呼ばれている伝統的な絣である。この布はこの地域のクメール系の人達にも販売されおり、もちろんムスリムの彼女たちも祭りや結婚式の時に着用する伝統的な布である。柄は、カンボジアで織られているものと同じで、過去においては天然染料からもたらされた伝統的な 5 色(黄、赤、緑、藍、黒)の配色で、花柄と幾何学模様の組み合わさった柄などが中心で、カンボジアで織られている物と全く同じである。これらの絣は、同じ系統のものが東北タイのクメール系の村人によって、同じようにホールと呼ばれて織られている。メコン河の流れに沿って、東北タイ、カンボジア、そしてベトナムのメコンデルタが絣の布を通じてつながったことになる。

 ムスリムの人達は、自分達の村をソイと呼ぶ。ジャオザンからメコン河本流に面するタンジャオの町までの約 17 キロの間にも幾つかのチャム・ムスリムの村が点在し、そこにはモスクがある。しかしそこは、カンボジアのようにムスリムだけの村ではなく、ベトナム人や中国系の人達との混住した集落である。

 ロンスエンから約一時間半、チャウドックについたのは朝 10 時半頃である。途中すれ違うオートバイや車も多く。屋根にまで荷物を満載にした、ホーチミンやデルタの町カントーとの間を行き来する長距離バスに何度か出合う。町の入口には大きなバスターミナルがあり、正直、想像していたよりも大きな町だった。タイの農村部の郡庁所在地クラスの町よりも、店の数品物共に多く、町としての体裁を保っている。現在のカンボジアであればさしずめ県庁所在地クラスである。メコンデルタの中でも、交易の要所として古くから発展してきたのであろう。また、それを支えるだけの商いがそこには有るのであろう、まさにメコンの恵みを感じさせる。

 翌朝早く、ロンスエンの市場に出かけてみる。並ぶ品物は豊富だ。日常食となったフランスパンを売る屋台もある。すげ笠姿のベトナムの女達に混じって、カンボジアでクローマと呼ばれる布(万能タオル)を頭にまいたチャムの女達が市場にしゃがんでいる。

 今年の 1 月から 5 月まで、絣などに代表されるカンボジアの伝統的絹織物の現状を実地調査する機会に恵まれた。

 このロンスエンの街の近くには、2 世紀頃メコンデルタに生まれた「扶南」と呼ばれた国の都オケオの遺跡がある。遺跡からは当時のローマ帝国の金貨なども出土し、扶南が東西交易の中継点として、このメコンデルタの地に栄えたことを物語っている。その出土品などを展示した小さな博物館がこのロンスエンの街にはある。中国人の記録の伝える所によれば、扶南はもと裸の蛮人の住む国であって柳葉という女王が統治していた。

 時計の針は 5 時を指していた。目的地、カンボジア国境の町アンザン省チャウドックまで、あと約 50 キロはある。不慣れな土地で暗くなっての到着を避けるために今夜はメコンデルタの北西の省都ロンスエンに宿を取ることにした。

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