IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
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ベトナムに残るクメールの織物 - 1.メコンデルタのチャム・ムスリム

 このロンスエンの街の近くには、2 世紀頃メコンデルタに生まれた「扶南」と呼ばれた国の都オケオの遺跡がある。遺跡からは当時のローマ帝国の金貨なども出土し、扶南が東西交易の中継点として、このメコンデルタの地に栄えたことを物語っている。その出土品などを展示した小さな博物館がこのロンスエンの街にはある。中国人の記録の伝える所によれば、扶南はもと裸の蛮人の住む国であって柳葉という女王が統治していた。

 ある時、異郷の混慎なる者が、商船にのってこの国にたどり着き、柳葉と結婚し、服を着ることを土地の人に教えて、扶南の最初の王になったとある。その後、6 世紀の中頃、現在のラオス南部メコン河本流の辺りにあった「真臘」の国が、その勢力を拡大してメコン河を南下し扶南を圧迫、7 世紀には併合するにいたる。その後真臘は分裂するが、9 世紀初めクメールの王により統一され、アンコール王朝が始まる。それ以降このメコンデルタは、17 世紀の末南下してきたベトナム人によって併合されるまでクメール(カンボジア)人の土地となる。

 それ以降、新たにメコンデルタに入植してきたベトナム人、そして中国人と同化しながらも、今日でもベトナムに於ける少数民族として、7 万人以上のカンボジア人が「クメール・クローム」と呼ばれながらメコンデルタを中心に暮らしている。このアンザン省にはこれらカンボジア人と共に流浪の民、チャムの人々が多く暮らす地域でもある。

 熱帯モンスーンを利用した南インドから中国への交易、いわゆる海のシルクロードの中継拠点としてインドシナ半島は重要な位置を占めてきた。なかでも、その交易と密接にかかわってきたのが 2 世紀から 17 世紀にかけてベトナム中部の海岸地帯に、栄えたチャンパの王国である。
 チャンパ国は複数の民族によって構成されていたとされるが、その中心を担っていたのがチャムの人々である。南下するベトナム(キン族)、また隣国クメールとの興亡を繰り返しながら弱体化していく。15 世紀後半のベトナムの侵攻によって王国の首都は陥落、アンコール王国などに保護を求めてチャム人は移住していった。それ以降ベトナム南部の一地方勢力となったチャンパの末裔たちの多くは、しだいにベトナム社会の中に同化していったが、その一部は周辺諸国に再び難民となって移住を繰り返していった。

 人口 7 千 4 百万のベトナムに於て、多数派キン族(ベト族)以外に、53 の少数民族があるといわれている。その中で、現在ではチャム族としてのアイデンティテーを持つ者は僅かに約 8 万人、その多くは、ベトナム中部海岸地帯のトゥアンハイ省とメコンデルタのアンザン省に集中している。

 トゥアンハイ省に住むチャム人のおよそ三分の二はヒンドゥー教徒(ブラーマニズム信奉)、残りは「バニ」あるいは「チャム・バニ」と呼ばれる土着化したチャム族ムスリムで、必ずしも厳格なイスラム教徒とは見なされていないようである。それに対してアンザン省に住む約 1 万 5 千のチャム人は、多数派のスンニ派イスラム教徒である。アンザン省の中でも特に国境の町チャウドック周辺に集まっている。

 ヒンドゥー(インド)文化の影響を受けながら、独自の芸術文化を開花させたチャムの人々が衰退期 (16-17 世紀)にイスラム化していく過程は、今日に至るまでのチャムの人々の数々の受難の歴史を物語っているように思える。

更新日時 : 1995年5月16日 09:10

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