1996年3月アーカイブ

生糸と草木染め

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最近、日本ではタイシルクがずいぶん知られるようになってきた。しかし、30年以上前にはカンボジアのシルクが、この東南アジアのなかでその中心地であったことはあまり知られていない。フランスの植民地時代には、カンボジアからヨーロッパに向け、シルクが輸出されていた記録もある。
しかし、現在村で織られている布は、そのほとんどがベトナムからの輸入生糸を使っている。25年以前には、まだ残っていた黄色いカンボウジュ種の繭による養蚕も、現在ではほぼ壊滅状態にある。過去の伝統的な絹織物が、光沢のある伝統的な黄色の生糸で織られていた事を考えるととても残念な気がする。

草木染めについても、同様で、黄色はクメール語でブロフ-と呼ばれるガンボジの樹皮からとり、赤色も-カンボジアでも生産されていたラック介殻虫の巣をもちいて染められてきた。藍色、そして黒は(茶)ラックの赤と藍の重ね染め、緑色は黄色と藍の重ね染めによる。しかし現在では、これらの伝統的な5色の絣の色も、黄色の下染め用に、ほんの一部の村人によってガンボジの樹皮が利用されているのみである。
むかし、カンボジアの村にも日本などと同じように藍染め屋があったようだ。しかし、マメ科の木藍により沖縄の泥藍とおなじ建て方で作られていた藍染めも、ラックによる赤色も今は、過去の物となってしまった。
世界の著名な博物館や個人のコレクションに残されている、伝統的なカンボジアの精緻な絣の絹織物が、再びこのカンボジアの地で復興し、カンボジアの人々の誇りとなる事を願いう。

織物産地

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絣の産地は、プノンペンの南、国道2号線をタケオの町に向かって約50キロの所にある、タケオ県のバティ郡、サムロン郡、プレイカバス郡の村で、サイワ・マ-ケットと呼ばれる小さな町と、プノムチソーと呼ばれる遺跡のある山の周辺に織物の村は点在する。
これらの地域では、高床式の簡素な家屋の階下に3-4メ-トルの経巻具が前に張り出した伝統的な織機が据えられ、中には一軒で2台3台と並べている家もある。
カンボジアの人達の中では、プレイベン県のシト-カンダ-ル郡のプレック・ジョンカン村が織物の村として有名である。メコン河を遡上したカンポンチャムの町からメコン河の支流を入った所にある。この村の中で織物は専業化され、絣の括り、染色、織りが家ごとに分業化しているが、これは他の地域では見られなかった特徴である。
そしてコンポンチャム県のチャム族の村などが、絣織りの産地として有名である。

紋織りの産地は、プノンペンの近くカンダ-ル県にほぼ集中している。その中でも、プノンペンからメコン河に添って15キロ程上がった右岸にある、クサッ・カンダ-ル郡のタウォン村が中心となっている。
庶民の布、サロ-ンやクロ-マを織っている地域は上記の県の他にも、自家消費を中心にカンポット県、カンポンスプ-県、バッタンバン県、シェムレアップ県などで僅かに続けられている。

アンコ-ル・ワットやバイヨンの遺跡に残る、不思議な笑みを浮かべる壁面のアプサラ(天女)のレリ-フ。その数は、数百を超え、 その衣は、あきらかにインドのパトラ(経緯絣)を思わせ、花柄と幾何学模様の柄が今も読み取れる。
13世紀のアンコ-ルを訪れた中国人、周達観による、当時のアンコ-ルの人々の生活を描いた「真臘風土記」(和田久徳訳注、平凡社)には服飾と蚕桑の項があり、すでに養蚕があり、織物がなされていた事が書かれている。訳者の注も含めて詳しく、ぜひ読まれる事をお勧めする。その中にはインドから布が輸入され、特別の布(純花布)として扱われていたとある。

現代のカンボジアに伝わる織物は、今回の調査の結果、大きく3っのグル-プにわけることが出来た。
まず最初のグル-プは、ジョンキェトと呼ばれる絣の技術を用いたピダンと呼ばれる絵絣とサンポット・ホ-ルと呼ばれる綾織による緯(よこいと)絣の腰布である。ピダンは壁に掛ける物で、寺を中心に天女や象、ナ-ガ(蛇)など、宗教的意味合いを持たせたモチ-フが多い。古い物の中には、全く繰り返しの無い柄により構成された布もあり、カンボジアを代表する絣といえる。
一方、サンポットはクメ-ル語でスカ-トのことを指し、ホ-ルは絣を意味する。サンポット・ホ-ルの中にも色や柄などにより4っの区分けがある。
まず、古典的な草木染の色に基本を置く黄、赤、黒、緑、藍など5色のサンポットホ-ル。プノンペンの市場などで人気のある、明るい化学染料の色のサンポット・ホ-ル・ポ-。メインの柄の他に両端と裾に立派な柄を持つ、サンポット・ホ-ル・カバン。このカバンは唯一男性が着る事の出来る絣でもある。カバンには、2枚分の腰布(約3メ-トル)と言う意味もあり、ジョンカバンと呼ぶパンツ状にはく着方にも使われる事がある。ストライプと絣の組み合わせによる、サンポット・ホ-ル・クトン。
これらサンポット・ホ-ルのモチ-フは200以上あると言われている。だが、それらは、織手の記憶の中にあり、記録されてはいない。戦乱の中で、それらの高度な伝統の技術を受け継ぐ織手たちが激減し、残された人達も高齢になってきているのが現状である。

第二のグル-プは、サンポット・パムアンと呼ばれる経緯糸異なる色により、綾織りで織られた玉虫効果のある布である。それを基本地として、花などをモチ-フにして金糸銀糸を使って紋織りで総柄に織り込んだ物が、チョラバップ。豪華な物でセレモニ-や結婚式に利用される。
糸綜絖の数も複雑になると、綾織り用の三枚と紋織り用の19枚、計最高22枚が使われている。同じく総柄で、色糸を使ったラバック。紋織りを裾柄に織り込んだ物が、チョチュン。細い緯ストライプの、アンルゥン。日本のやたら織りと同じように、もとは絣の残り糸で織られていたと思われるカニィウ。約1センチ程の紋織りのモチ-フを20センチ間隔で4方に飛ばした、バントック。
 これら1と2のグル-プは、シルクで、全て3枚綜絖の綾織りによって織られている。

第三のグル-プは日常着。農民や庶民の布と呼べる物である。そのためかシルクあり木綿ありで織られてきた。まず、サロ-ンと呼ばれる腰布。サロ-ンの基本は縞柄であるがその配色などにより、3っのタイプに分けられる。白のラインを基本にした、サロ-ン・ソ-。ソ-はクメ-ル語で白色。
そして、クロ-ラ・プノム・スロックなどと呼ばれる、タ-タンチェック柄の物。クロ-ラはクメ-ル語で柄の事を意味する。3っめのタイプはモスリムのチャム人によって織られている、木綿とシルクの混織のサロ-ンである。サロ-ンは、基本は平織りである。
これと別に、先の真臘風土記にも出てくる、白地の綾織の布がある。平織りの布もあるが、綾織が主で細かい柄をさりげなく織り出した布もある。用途は多様で僧衣、棺に掛ける布、村人の正装用などに使われる。マックルアと言う木の実で黒く染めて農作業着にもなる。この布は、タイ東北地方に住むクメ-ル系の村人も同様の目的で織っている。

そしてクメ-ル人なら一人に一枚というのが、クロ-マと呼ばれる、多目的タオルである。汗は拭く、頭に被る、物を包む、腰に巻く。時には、赤ん坊もこの中に入れてあやしたりもする。よく見かけるのは、青と白か赤と白の配色の小さなチェック柄のものだ。少し凝った配色のクロ-マをしているのは、チャム人のおばさんだったりする。
カンボジアでは男女兼用だが、タイ東北地方の、ラオ、クメ-ル系の人びとの間では同じようなやくめの布はパカォマ-と呼ばれ、男性のみが利用する。これ以外には、蚊帳やブランケットを織っていたが、近代化の中で需要がなくなり、今ではほとんど織らなくなってきた。

遺跡、アンコ-ル・ワットで知られるカンボジアの民、クメ-ル民族が自らの王国を築き始めるのは、古く7世紀に遡る。12世紀、アンコ-ルの王ス-リヤバルマン2世から7世の時代には栄華を極めたその版図は、ほぼ今日のタイ、ラオス、ベトナムの全域にまでその影響力を及ぼした。海のシルクロ-ドと呼ばれる南インドから中国にいたる季節風に乗った、海洋貿易の中継点としても栄え、その基底には、ヒンドゥ-(インド)文化の影響が顕著であり、その集大成がアンコ-ル・ワットの遺跡群でもある。
だが、15世紀、アユタヤの地に王国を築いたタイ族の度重なる遠征により、大建築と素晴らしい美術を残し栄華を極めたアンコ-ルの王朝は崩壊する。これ以降、カンボジアはベトナムとタイの狭間で干渉を受け続け、近代にはさらに西洋の干渉を受け、今日に至っている。

カンボジアの面積は、日本の約半分にあたる。南西部の山岳地帯を除いては、トンレ・サップ湖と呼ばれる巨大な湖を中心にほぼ平坦な地型。東部には、北のラオス国境からメコン河が流れ込み、プノンペンの街を経て南東に向きを変えながら、ベトナムのメコンデルタへと向かう。これらの地形を背景に、1970年以前には豊かな米作を誇っていた。
そして村に於ける手織物は養蚕と共に、雨季と乾季によって構成される熱帯モンス-ン気候を背景に、自家消費を中心にした生活の中で生き続けてきた。

戦乱の傷跡

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カンボジアの「絹織物の現況」調査は、著名なアンコ-ルワットと共に伝統文化の復興に取り組む、カンボジアのユネスコ(国連教育科学文化機関)からの委託により1995年の1月から5月にかけ、実施した。

この調査で私は8っの県の36以上の村を訪ね歩いた。当時、戦乱の続いたカンボジアでは、織物についての情報も少なく、地図さえも当初は手に入らなかった。プノンペンの市場で布を売る店のおばさんに、「この布は何処から来たの」とたずねるところから始まった。織物をする辺境の村に着いて、インタビュ-の後には、「この道の先に織物をやっている村まだあるかな」とたずね、船やオ-トバイを乗り継ぎ、村々を歩いてきた。
私の草木染めや養蚕についての質問に、訪ねた村の織手から「25年前(1970)まではやっていた」と言う話しが良く聞かれた。5ケ月にわたる調査を終えて今思うのは、25年間の文化の中断現象とでも言えるものが、この国に存在した事である。それは丁度、一世代分にあたりあらためて戦争とそれに続く戦乱のもたらした、傷の深さを考えさせるものでした。
しかし、首都プノンペンを中心に、人々の生活は新たな平和の訪れによる安定を見せている。それに伴うかの様に、ここ数年手織物に取り組む村人の意気込みは強く。国内での絹織物に対する需要増が、伝統的な絹織物の再生に大きく弾みをつけようとしている。

カンボジアの「絹織物の現況」調査は、著名なアンコ-ルワットと共に伝統文化の復興に取り組む、カンボジアのユネスコ(国連教育科学文化機関)からの委託により1995年の1月から5月にかけ、実施した。

この調査で私は8っの県の36以上の村を訪ね歩いた。当時、戦乱の続いたカンボジアでは、織物についての情報も少なく、地図さえも当初は手に入らなかった。プノンペンの市場で布を売る店のおばさんに、「この布は何処から来たの」とたずねるところから始まった。織物をする辺境の村に着いて、インタビュ-の後には、「この道の先に織物をやっている村まだあるかな」とたずね、船やオ-トバイを乗り継ぎ、村々を歩いてきた。

1. 戦乱の傷跡 2. カンボジアの歴史と風土 3. カンボジアの伝統染織 4. 織物産地 5. 生糸と草木染め

参考文献
1、石井米雄・桜井由躬雄「東南アジア世界の形成」講談社、1985
2、周達観(和田久徳訳注)「真臘風土記」平凡社、1989
3、森本喜久男「カンボジアに於ける絹織物の製造と市場の現況」ユネスコ・カンボジア、1995

written by Morimoto,Kikuo

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