IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男

始まってしまった戦闘

1997年7月5日。銃声と、遠くに聞こえるロケット弾の音は、やむことがなかった。ときには、家の前でも散発的なカービン銃の銃声がひびいていた。三日前には、フンセン第二首相系(当時)の軍隊が、プノンペンの北、35キロにあるラナリット第一首相系(当時)の傘下にある海軍基地を攻撃したばかりであった。
今年に入って、血なまぐさい事件が相次ぎ、その間隔が狭まってきていた。今日、一週間の仕事の予定でバンコクに飛び立つつもりでいた。そのため、昨日、研究所のスタッフとミーティングを持った。そのとき、来週ぐらいになったら何か不測の事態が起こるかもしれないから、注意をするように話しあった。そのやさきである。4日の夜から銃声は始まっていた。日ごろ、酔っ払った兵隊が撃つ数発の銃声にはなれてしまっていた。が、しかし量が違う。

5日の早朝、ド-ン、ド-ンとひびく大砲の爆発音で眼をさました。家から見ると、空港方面に数ヶ所黒煙が上がっている。昼過ぎには、砲撃の音もいったん止んでいた。午後のバンコク行きの飛行機に乗るつもりだったから、知り合いの空港タクシーの運転手に電話を入れてみた。大丈夫、行けるという。走り始めてすぐ、市内から空港に向かう道にでたところで、軍の検問所ができていた。日ごろ見かけるそれとはちがった、緊迫した空気が伝わってくる。街いくひとの顔つきもいつもとちがう。シクローに家財道具をつんで走ってくる人もいる。
数百メートル走ったところでまた検問。このさきには行けそうにない。荒っぽく、手荷物まで調べられた。銃声も聞こえる。荷物を抱えて逃げ惑う人、銃を構えて走りくるオートバイを制止、荷物を調べる兵隊。

ふだん見慣れない、目つきのまったく違う兵隊がいる。銃のトリガーに指をいれたまま、いつでも撃つつもりでいる。その荒っぽいしぐさと、時たま聞こえてくるロケット砲の炸裂音と黒煙で、空港周辺が戦場になっていることが見て取れた。
私は、空港が閉鎖されていることをまだその時点ではしらなかった。しかし、少なくとも、飛行機に乗れる状況ではないことは理解できた。6日には、戦闘は市内の各地に広がった。私の家の路地を出たところの大通りは、第二首相の宿敵、ラナリット第一首相の官邸につづく道であったから、銃声の音は激しかった。そのさなか、午後3時20分頃、大使館からの伝達が日本人緊急連絡網をとうして携帯電話にはいった。内容は、「緊急の場合も大使館には避難してこないでください」というものであった。よりによって、自宅から遠くないところで銃声やロケット砲の音が聞こえているさなかである。なにを、寝ぼけたことをいっているのだ。と、怒鳴りたくなった。さすがにこの件は、後日訂正があった。大使館の敷地が狭いのと、大使館周辺も戦闘が激しかったので、というものである。これでは、訂正とはいいづらい。
戦闘の激しかったとき、普段400リエル(約16円)のインスタントラーメンが、5倍もし、タバコや他の日常品も便乗値上げで3―4倍になっていた。

市街戦が一段落した7日、心配顔で近くの小さな日本食レストランに集まる日本人の、名簿を作りはじめた。氏名、パスポート番号、日本の住所、連絡先。この先なにが起こるかわからないという、先行きの不安があった。ここに、これだけの日本人が今いることを、大使館に連絡しておきたかった。というのは、その店にあるテレビにNHKニュースがながれ、カンボジアの内戦がうつしだされていた。そして、現地の日本大使館情報として、約250人の日本人が現在カンボジアにいると伝えられた。それを聞いて驚いた。それは、大使館に「在留届」をだしている、公式の日本人の数である。
ということは、私のように、届けを出していない、その他の日本人は大使館の数には入っていない。ということではないか。やばい、もし、日本の救援機がきても、私たちは乗せてもらえないかもしれない、とその時は真剣に心配した。何人かが手伝ってくれた。あっという間に、50名近くの名簿ができあがった。その時点で、大使館の把握していない、ゲストハウスや安ホテルにいる旅行者、そしてアパート暮らしの在カンボジア日本人たちである。

武官風のフランスやアメリカの大使館員は、すでに私たちが名簿を作っているとき自国民をさがしに、ゲストハウスをたずねてきていた。さすがである。歴史のちがいであろうか。名簿を作ったことを、日本大使館の領事に電話でつたえた。が、忙しいから大使館のガードマンに預けておいてくれという返事であった。まあそんなもんだろう。日本の大使館というのは、同じ日本人のパスポートをもっていても、その出身か職業で対応のしかたのランクを内部規定でもっているところだから。

ファーストプライオリティーは、もちろん皇族。その次は首相や大臣、そして国会議員、もろもろの公務員、そして一部上場企業の会社員と順番がある。どこの馬の骨類の日本人は、まあ忙しくなければというていど。馬の骨類の名簿じゃ、わざわざ大使館員が会って受け取ることもない。大使館の入り口のガードマン氏で十分である、という判断がくだされた。だけなのだろう。救いは、読売新聞の特派員氏が大使館に、この件を公式に念をおしてくれたことだった。ある種の、棄民=選民体質とでもいえるものがある。少なくとも、外務省は憲法の下に平等ではない。
名簿作りを手伝ってくれた友人は、そんな大使館の対応について怒っていた。でも、大使館には避難してこないでください、なんていう話があったことは、冗談でも、口が裂けてもその場ではいえなかった。

一日遅れて、大使館からゲストハウスに滞在している日本人を調べにきていた。その後の、NHKニュースの在カンボジア日本人の数はちゃんと訂正されていた。まあ、これで一安心。救援機に乗れるぞ。8日、タイ政府が自国民の避難のために、無料で軍用機を飛ばしたという情報が入った。タイはかっこいいな。何人かの日本人もそれに乗ったらしい。プノンペンの町は、そんなに大きな町ではない。外国人いきつけの安食堂の常連たちは、たがいに顔見知りである。ドイツ人やオーストラリア、カナダ人。非常事態である。たがいに、仕入れた情報を交換し合った。こんな時には、助かる。

おもしろいもんで、いろんな情報が乱れ飛ぶ、にせ情報しかり。いかにも、特別の情報をある筋から手にいれた、と自信ありげに人に話すやからも出てきた。戦乱のなか、とうぜん銀行も閉鎖されていた。私もそうであったが、手持ちの現金をそんなに持っていなかった。先行きのことを考えると、不安があった。しかし、なるようになれ、である。高くなった米だが、とりあえず少し買いだめした。

空港を見に行く。途中3台の焼けただれた戦車を見かけた。ところどころのビルや建物に砲弾の跡が残り、市内の戦闘の激しさを物語っていた。略奪と戦闘のあとで、書類がターミナルの回りに散乱し、空港の機能は完全に破壊されてしまっていた。しかし、幸い滑走路には被害がなかった。
空港閉鎖のなかで、バンコク行きのタイの民間チャーター便が飛ぶといううわさが流れた。脱出費280ドル、足元を見たいい商売、普段の倍以上の料金である。それに人々が群がっていた。
9日の朝、片道142ドルでローヤルエアーカンボジアがバンコクに飛行機を飛ばすという情報が入った。早速オフイスに行ってみる。内戦まえの、5日以前の発行済みチケットは無効。すでに脱出したのか、第一首相にちかいエアーラインのオーナーは消えてしまった。内戦後の、出来立てほやほやの、「新」会社なのである。現金で新たに買わなければならない。それでも、黒山の人だかり。殺気だっている。
やっとのことで、コンピューターの11日の乗客名簿に私の名前を入れてもらった。午後また来いという、混乱している。午後いくと、朝の予約記録の紙はごみ箱の中に捨てられた。
正攻法では乗れない、コネの世界である。つてを探す。電話、電話。翌日の朝、やっと席を取ってくれそうな「人」を見つける。14日の朝、7時発の臨時便の席が、その日の夕方には取れた。感謝。
臨時の木のテーブルが、出国窓口であった。ロービーのガラスには、銃弾のあとが残っていた。国内線に使っていた66人乗りの小型プロペラ機で、10日遅れでバンコクにたどり着くことができた。

1997年7月15日  バンコクにて
森本喜久男

更新日時 : 1997年7月15日 14:03

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