1998年6月アーカイブ

前編からつづく

しかし、考えれば。プノンペン-バンコク往復航空運賃、たったの99ドル。他社の半値以下。夕食が11時をすぎることになっても、本当は文句を言っちゃいけない。

それにもまして、現状ではバンコク-プノンペン間、所用時間50分の最速を誇る。ロィヤルエアーカンボジアのプロペラ機だと1時間30分。それに、少し古いけど、正真正銘、本物の名機DC10。世界の航空会社で使われているジェット機だ。飛行は安定しているし、あの独特の前上がりのランディングスタイルはかっこいい。それに、プロペラ機のように、上昇気流をさける必要もない。雨季の季節。大雨の中を小型のプロペラで飛ぶのは、そんな気持のいいもんではない。

このカンプチアエアー、機内に乗ると、なぜか名前はオリエントタイエアーラインに変わっている。もちろん、エアーホステスはタイ人、タイ語が飛び交っている。二つの顔を持ったエアーなのだ。

実は、この飛行機会社、市内で戦車やロケット砲が飛び交った、昨年(97年)7月の政変のとき。プノンペン空港が閉鎖された7月5日以降。一般機がこなくなった数日後、救援機として最初に飛んできたタイ籍の民間チャーター機だった。でも、足元をみたプノンペン-バンコクお一人さま片道、現金払いの250ドルは、やっぱり高かった。それでも乗りたい人々が、空港に黒山のごとく集まり、現金を手に搭乗券を奪い合った。つかみ合いのちょっと一段落した、一週間後には、救援機のこない、日本大使館御推薦の日本人の皆様プノンペン脱出機となった。どさくさの中、自分では乗らないのに席とりの片棒をかついだような記憶がある。

後から聞いた話では、当時プノンペンから乗る人はいっぱいでも、バンコクからの乗客は、ガラガラ。いくら物好きといっても、プノンペン行きに乗るのは戦場好きな報道関係者か、使命をおびたエージェントぐらいしかいなかったらしい。それを見越して、バンコクでは片道1000USドルなんて値段を平気でつけていた。この火事場泥棒、と小声で叫びたくなる。

その実績を買われ、たのか、めでたくカンプチアエアーとしてデビュー。プノンペン発の国際線定期便として就航した。しかし、プノンペンにやってくる旅行者の絶対数は依然伸び悩み。毎日1便就航から、現在では週2便になってしまった。私のような、チープチケットのフアンとしては残念だ。

この会社、実はもう一つおまけ話がある。1994年の12月までの数年間。なぜかカンボジアエアーと呼ばれ、カンボジアのナショナルフラッグとして飛んでいたことがある。当時は、カンボジア政府とタイ資本との合弁会社だったのである。しかし、何の予告もなく、突如。本当に突如、94年の12月末日、運行を中止した。当然、クリスマスとお正月の休暇をタイで過ごしていた、カンボジアお勤めの外国人は、年が明けてバンコクの空港にいくと、飛行機会社は消えていた。本当に消えていたのだ。帰りのエアーチケットはただの紙屑。誰も責任は取らなかった。すごいなー。

そして新たに、現在のロイヤルエアーカンボジアが、ナショナルフラッグとして、マレイシア資本と政府との合弁で飛びはじめた。当然別会社。マレイシアだタイだといっても、華僑のお金持ち系であることには変わりがあるわけではないだろう。タイの華僑よりも、その時はマレイシアの華僑が強くなったという話だけかもしれない。

仕方なしに、その機体をウボンなどタイの地方空港に野晒しにしていた、かわいそうなカンボジアエアーのDC10。96年から、タイでは最強のタイインターナショナルエアーウエイズが飛んでいない、あまりもうかりそうもない、斜めルートのタイ国内のマイナーな定期便運行を開始。まあ、機体を野晒しにするよりはいいのかもしれない。それがオリエントタイエアーとなっての再デビューなのだ。
そして、なんと今はリベリア船籍の日本貨物船のように、再びカンボジア船籍カンプチアエアーとして、バンコク発プノンペン経由でクアランプールやマカオへと、再び国際線を飛びはじめた。

プノンペンにて 森本喜久男
98年6月10日
追記:残念ながら航空運賃は現在、99ドルではなくなった。

たそがれどきのプノンペン、ポチェットン国際空港。出発の定刻19:00はすでにすぎている。肝心の飛行機の姿が見えない。うわさで、遅れやフライトキャンセルがよくあると聞いていた。それでも、今日に限って。でもいやな予感がしてきた。

19:10、カンプチアエアーの搭乗カウンターにいた地上勤務の女性スタッフが待合室に一人姿をみせた。なにか、こそこそと乗客の一部に、声をかけ始めている。あやしい。待っている、乗客全員へのアナウンス、なんてゆうものはもちろんなし。私のところには、こそこそしに来てくれなかった。

こそこそされた一人のヨーロッパ系の男性に、確かめる。エエーうそー。飛行機の到着が2時間遅れるらしい、だと。200人はゆうに乗れるジェット便。でも出発ロビーに待っている乗客はわずか31名。みんなの反応は、冷ややかで慣れているのか、「あっ、またか」という感じ。その反応に,胸をなでおろす風にスタッフはそくそくと、搭乗カウンターのほうへ、帰りはじめた。

それを追って。イギリス人と韓国人、そして私、三人の男が動いた。こんな所で、2時間もほっておかれたらたまらない。案の定、先のイギリス人が、スタッフを呼びとめクレームをつけはじめている。なになに、「ホテルカンボジアーナのレストランで乗客全員に食事を出すべきだ」すごい。Mr.コーリヤン、そして私も負けじと、仲間入り。盛り上がる。スタッフは、自分はただの雇とわれの身でそんな権限はないと、ゼスチャー一杯に強調。私たちの、飛行機の遅延にたいする乗客へのリフレッシュメントの提供という当然の要求に、応じる気配はまったくない。ほっとかないでほしいな。

「カンボジアーナのレストランがだめなら、ここでビール3本」と先のイギリス紳士。現実的に、早々と要求ダウン。私は、航空会社の国際機関IATAにクレームを出すよ、などと軽くいやみをいってみる。コーリアン氏は、この近くのレストランでもいいとくいさがる。

あきらめたかのように、彼女はやっと無線機でマネージャーと連絡を取りはじめた。私たちも、引かずにがんばる。その間約10分。待ち合いロビーにあるショップのソフトドリンクなら、とスタッフが提案してきた。やったぜ。言わなければ、何もなしで待たされるだけ。搭乗待合室に戻った私たち、無料のコーラを飲みながら、ウィンク。

後編につづく

歴史的背景その2

1970年3月、ベトナム戦争も後半にさしかかった頃。ベトナム戦争での勝敗に焦るアメリカの後ろ盾でクーデターを起こし、シアヌーク元首を追放、政権を取ったロン・ノル将軍の時代。カンボジアには二つのベトナムがあった。

「エー、ビー、シー、ディ、イー、エフ」。そこで彼女の手が止まった。エッチ。しばらく考えていた。突如、私に、日本語で書いてくれと言う。にほんご。一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。

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