IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男

書けない言葉(前編)

「エー、ビー、シー、ディ、イー、エフ」。そこで彼女の手が止まった。エッチ。しばらく考えていた。突如、私に、日本語で書いてくれと言う。にほんご。一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。

英語を勉強したいという彼女のために、紙に、大き目の字でアルファベットを書かされた。一つずつ指を差しながら、発音を練習、音をなぞる。いくつかは発音しづらいようであった。私の書いたアルファベットの下に、彼女は自分で読みを書こうとした。Fでしばらく考えたあと、なんとかエフは書き込んだ。しかし、Hで止まってしまった。書けない。エッチと書く文字を彼女は持っていない。
しかし私には、恥ずかしいのか、書けないとは言わない。日本語で書けと言ってきた。そのことを、私は、一瞬理解出来なかった。
彼女は、17歳。ベトナム人、だが3歳のときに、カンボジアと国境を接するタイニン省から、両親とともにカンボジアに流れてきた。1984年、当時のカンボジアは、ベトナム軍管理下のカンボジアである。

しかし、学校にいったことはない。小さい頃は、漁師である義父の仕事を手伝い、漁に出されていた。10歳ぐらいから、果物や菓子を籠にのせ行商などをしながらすごしてきた。そのため、ベトナム語とカンボジア語の簡単な「日常語」は話せるが、共に読み書きはまったく出来ない。わずかに、10歳の頃、学校に行きたく、母親の目を盗んで、行商のかたわら、私塾の教室にいこうとしたらしい。が、母親に止められた。そのころ、少しやったベトナム語が今かける唯一の文字である。しかし、ほんの片言、声調のある複雑なベトナム語の表記は正確には出来ないままである。

数ヶ月前、やはり英語を勉強したいという友達と、年輩のベトナム人の元教師に家庭教師をたのんで勉強を始めた。が、彼女は一日で挫折してしまった。他の3人は現在も続けている。最初、彼女は老教師の教え方が良くない。とか、一緒に始めた友達の悪口を言っていた。

友達は、ここ数年の間にカンボジアに来たばかり。ベトナムに暮らしていたから貧しいながらも学校にいく機会があり、簡単な読み書きはできる。しかし、彼女は基本の読み書きさえ出来ない。そのため、ついていけなかった。その、恥ずかしさをごまかすために、教師の悪口を言っていたことを、私はあとで知った。
最近、日本語の「あいうえお」を、ひらがなで書く練習を少し始めていた。ただ、その音を文字で書き表せないことが多かった。ベトナム語表記らしいもので書こうとするが、次ぎ同じようには読めない。それでも少しひらがなを覚えはじめていた。それで、私に、日本語で書けといってきた。

いまの彼女にとっては、英語を文字で覚えていくことは至難である。彼女には母国語といえるものが無いに等しいのだから。まず、母国語をきめ、その読み書きから始めなくてはならない。もしかしたら、母国への帰属の手続きからもう一度始めなくてはならないのかもしれない。 

彼女のような、特殊な社会状況に置かれた、数万のベトナム人がカンボジアには暮らしていると見られる。彼ら、彼女たちは、カンボジアの国籍はもちろん、ベトナムの国籍さえも持たずにいる。カンボジア国内の政治的混乱とベトナムとの歴史的関係が、この特殊な無国籍状態を生み出してきた。

歴史的背景その1

カンボジアにおけるベトナム人の存在は、常に政治的意味合いの中に置かれてきた。それは現在も同じである。越と呼ばれ、中国の南部にいたベトナム人。南下をつづけ、現在の中部ベトナムにあったチャム人の国チャンパを、16世紀には征服。さらに南下を続け、豊かなメコンデルタへの進出を、18世紀に開始しはじめた。

2世紀の「扶南」いらい、クメール人の地であったメコンデルタに、新たな抗争が始まる。17世紀以降、この地に半独立国を作っていた、明朝から流れてきた中国人勢力。オランダやイギリス、フランスなどのヨーロッパ勢力。そして、アユタヤのシャム勢力。
利権をめぐる複雑な抗争であった。しかし、最終的にベトナムが、カンボジア王家の内紛を利用する形で、メコンデルタの主人となっていった。同時にカンボジアへの、ベトナム人の大量の移住も開始されていく。

しかし、19世紀の半ば、1862年、フランス軍の力のまえに、ベトナム政府は、メコンデルタに位置する南部3州をフランスに譲渡した。この地は、その後コーチシナと呼ばれるようにる。現在でも、メコンデルタの地域には、カンプチアクロームと呼ばれる数十万人のカンボジア人が、独自の文化を残しながら生活している。

1863年。仏領インドシナの歴史が始まった。フランスの植民地となったカンボジアにおいて、下級官吏、フランス人の使用人、手工業職人として、多くのベトナム人がプノンペンや地方都市に住みはじめた。

それと共に、ベトナム人の農民や漁民も流れ込んできた。1920年代には、フランスの植民地経営による、ゴムなどのプランテーションにベトナム北部からも、多くの労働者が連れてこられた。

メコン流域のコンポンチャム州には、自家用飛行場もある、広大なプランテーションの跡が現在も残っている。92年には、フランスの援助で、ゴムの生産が再開された。また、クラッチエ州のメコン川沿いには、ベトナム人集落が、おなじベトナム漁民のフローティングハウスとは別に、現在も見られる。プランテーションに連れてこられたベトナム人の末裔なのであろうか。

1950年の統計によると。プノンペンの人口35万人のなかで、ベトナム人が10万、中国人が11万人、住んでいたといわれている。それ以外にも、フランス人などの外国人が住んでいたと思われるから、プノンペンの町にはカンボジア人よりも多くの外国人が住んでいたことになる。同統計によれば、カンボジアの全人口、400万人に対し、ベトナム人の数は32万人となっている。

これは最近の話だが、プノンペンの町では、8割ほどの店で中国語が通じる。実際に、北京語しか話せない、最近中国本土から移民してきたと思える人たちも不便なく生活できる。セントラルマーケットのちかくにある、中華菜館のオーナーもそのひとりだ。その数は少なくない。

同様に、市場や路上の物売りの多くはベトナム人かもしくは、ベトナム語が通じる。電気や車の修理などの町の技術屋さん、そして洗濯屋さんの多くもベトナム人なのである。有名な、家具職人が集まった地域がある。ここもしかりである。ベトナムの正月は中国正月と同じ。プノンペンの町ではにぎやかに、正月を祝う儀式があちこちで繰り広げられる。これらは、50年代の、プノンペンの人口構成が現在も基本的には大きく変わっていないのではないかと思わせる例である。

(後編につづく)

更新日時 : 1998年6月 8日 15:47

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