IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
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書けない言葉(後編)

歴史的背景その2

1970年3月、ベトナム戦争も後半にさしかかった頃。ベトナム戦争での勝敗に焦るアメリカの後ろ盾でクーデターを起こし、シアヌーク元首を追放、政権を取ったロン・ノル将軍の時代。カンボジアには二つのベトナムがあった。

一つは、ホー叔父さんを指導者にいただく、北ベトナム。そして、もう一つは、崩壊寸前の南ベトナム。両者の、血みどろの争いが、カンボジアの国内においても繰り広げられていた。カンボジアでは、国民の不満を解消するために、ロン・ノル政権は国民の中にある反ベトナムの感情をスローガンに取り入れ、掲げていた。この時期、約20万人の在ベトナム人が収容所に入れられ、1万2千人が殺害されメコン川に投げこまれたという。

当時のカンボジアの人口は約8百万人といわれ、ベトナム人は40万といわれていた。実際には、その数を上回るベトナム人がベトナム国内の戦禍を逃れて暮らしていたと思われる。

75年4月ベトナムのサイゴン陥落。カンボジアも、ポルポト派政権時代を迎える。最初の1年間は、新生ベトナムとの関係は良く。その後、ベトナムの覇権に対して新政権のカンボジア指導者は領土問題とも絡みベトナムとの関係を絶つようになる。その後、プノンペンを中心に、約4万人が殺され、23万人のベトナム人が、ベトナム、タイ、ラオスに避難したとされる。

79年1月、ベトナム軍の侵攻によってポルポト政権は倒れた。その時約15万人のベトナム軍兵士とその家族。約10万の避難していた元カンボジア居住者のベトナム人が戻ってきた。それ以外にも、多くの漁師や肉体労働者、農民が流入してきた。巻頭の彼女とその家族もその一人である。

不思議なことであるが、今日においても、カンボジアにはクメール人の漁師はいない。北洋漁業と比較されるほどに、その漁獲高の多さを誇る、メコン流域の内水面における漁業の担い手は、ベトナム人でありチャム人なのである。

80年代のカンボジアは、ベトナム人にとって外国ではなかった。ポルポト派の政権下、都市機能を放棄させられたプノンペン。多くのベトナム人専門家や技術職の、新たな移住により、機能を復活することが可能となった。学校で習う外国語は、ベトナム語でありロシア語であった。密かに英語を勉強すればそく監獄行きであった。それは、91年まで続く。

79年以降、ゲリラとなったポルポト派を中心に内戦の時代が始まる。彼らからみれば、79年のヘンサムリン政権からフンセン首相にいたるまでのすべてを、ベトナムの傀儡政権と位置づけていた。

そのために、現政権にとって、在カンボジア、ベトナム人の存在は常に政治的で、少なく評価されなくてはならない。86年に撤退したとされるベトナム軍の存在は、公式ではありえない、というのが現政権の見解である。

しかしこの国の実状を思うとき、多くのベトナム人が中国人とともに、カンボジアに帰化していることは否定できないことでもある。その中には、商人以外に当然軍人や警官も含まれているであろうことはいなめない。

プノンペン・ベトナム協会

プノンペンの中心街、セントラルマーケットの側、モニブン通りに面したところに、ベトナム協会はある。

94年に制定された移民法に対応する形で、在カンボジア、ベトナム人のために法的根拠はないものの、登録をおこない、身分証の発行をおこなっている。また、ベトナムに一時帰国するベトナム人に対し、一時帰国証を発行している。自国民に対し、非常に厳しい出入国管理を実施する、ベトナム政府に対応したものである。これらのサービスは、カンボジアに移住した、ベトナム人を対象にしたものだ。ベトナム大使館が掌握している在カンボジア、ベトナム人の数は93年7月現在で、約10万人。しかしこれはいわゆるパスポートを持った、正式な滞在者をさすとおもわれる。

現在、カンボジアに住むベトナム人は、緩やかな国境管理のなか、正式な書類など持たずに国境を通過するケースが多い、そのためカンボジアに滞在する何ら法的な根拠を持たないでいる。それらの人々を、協会は対象にしている。94年現在で、約3万人が登録。彼らのなかには、カンボジアの混乱を避け、一時ベトナムで生活した人たちもふくまれる。ベトナムからみれば、外来者である彼らが住める地はそこにはなく、再び住み慣れたカンボジアに戻ってきた。多くのベトナム人は、ベトナムでの生活より、プノンペンの生活のほうが楽であると語っている。

移住者の中には、困窮したベトナムでの生活からの脱出を考え、肉体労働者や漁師の手伝いでやってきた人たちもいる。一般的には、出稼ぎ労働者に近く、移住者ともみなされていない。その中には元南ベトナム政府関係者や下級軍人などの家族がふくまれている。75年のサイゴン解放後冷遇され、ベトナムの中でも最貧の生活を送ってきた人たちである。辺境地や底辺層の、ベトナムでの肉体労働の賃金が、月10ドル。それに比べれば、カンボジアでは月30ドルにはなる。

プノンペン市内には、これらベトナム人が多く集まって生活する地域が6ヵ所ある。有名な市内南の通称サイゴン橋周辺に約千六百家族。市内から北に約10キロ行ったスバイ・パック周辺に約千百家族。などである。

今日、カンボジアの子供たちでさえ、不足した学校と教員の中で、十分な教育を受けられずにいる。これらベトナム人の身分的に不確かな人々とその子供たちが、その狭間の中で置き去りにされるのは、無理ないことである。しかし、巻頭の彼女のように、就学年齢を過ぎても、自国の言葉さえも書けずにいる子供たちが、たくさん存在することも事実なのである。

昨年(97年)の7月政変のおり、自国民を心配したベトナム政府のテレビ放送において「在カンボジア百万同胞の安全を憂慮する」とあった。現在、カンボジアの人口は約1千万といわれている、その中で約1割がベトナム系であることになる。そのうちの多くは、プノンペンに暮らしているとおもえる。

しかしカンボジアとベトナム、それぞれの人々の感情は、歴史的な経過を踏まえて、相互になお複雑である。98年7月、プノンペンで、飲料水や市場の生鮮食品への毒物注入騒ぎがおこった。流言とおもわれるが、その犯人としてベトナム人の親子が路上で群集に撲殺された。

カンボジアにおける、ベトナム人移住者たちの問題は、今後も無視できない問題である。が、容易に解決できる種類のものではない。

1998年6月10日
プノンペンにて 森本喜久男

更新日時 : 1998年6月 8日 15:49

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