IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男

カンボジアンオフロード(後編)

実は、その村に95年のはじめ、ユネスコから依頼された、カンボジアの伝統織物調査の過程でどうしても訪ねたいと思っていた。しかし、クメールルージュの影響力のある地域で、治安は不安定であった。情報を仕入れに行ったプノンペンのユニセフ事務所で、つい先週、その地域を訪ねたスタッフが車に手榴弾をなげられ負傷したばかりだときかされた。当時は、とても行けそうな所ではなかった。

96年も末、その地域のクメールルージュが政府に投降。私のたずねたころは、安定し始めたばかりのときであった。昔から続けられてきた、熱帯種の黄色い繭による養蚕が、戦乱の中でも残ってきた。カンボジアの中でも数少ない地域の一つであった。

いぜんは、バッタンバン県に属していたが、88年バンティミィエンチェ県として分離した地域である。政情の安定を願う国連としては、地域の産業振興による経済的安定をはかるために、伝統織物のたてなおしを考えていた。女性の自立を促進することを目的にした、ローカルのNGOがUNDPと協力、プロジェクトを展開していた。が、技術的な問題でゆきずまっていた。そして、私のいる研究所に話がきた。

村で、自然染めのワークショップを実施。そのあと、村人の織った布を見て驚いた。信じられないほど、色落ちがする。彼女たちが使っている化学染料は、手染め用のものではなく、プノンペンの市場などでもよく販売されている種類のものだった。本来は、工業化された捺染工場などで使われているものだとおもえた。専用の助剤や高圧設備で使用されて、はじめて染色堅牢度がたもてるもので、一般の手染め用ではない。そのために、色落ちがするのだろう。

はっきりとは、わからないが。ヨーロッパなどでは、環境問題が話題となってきた。そのなかで、とくに化学染料の重金属を含んだ廃液の毒性が問題にされるようになってきている。そのため、使用禁止になった化学染料も多いと聞く。そんな自国で販売できなくなったものを、カンボジアなどに持ち込んできているケースもあるのではないだろうか。

同じような例は、プノンペンの街角で、船積み用の大型コンテナーからおろされている、食用油の缶を見て驚いたことがある。それは、すでに使用期限が過ぎたものであった。とうぜん、自国では販売できなくなったものである。プノンペンの市場では、こんな一吋缶から、ビニールの袋に入れ、ばら売りにされた安い油が売られている。それもこんな製品ではないかとおもってしまう。カンボジアは、世界のゴミためなのか、といいたくなる。

ラオスやベトナムでは、公的には町中でUSドル紙幣は使えなくなった。しかし、カンボジアでは、市場などをはじめ普通に使える。プノンペンのレストランや店では、ドルしか受け取らないところも少なくない。こういう、言いかたをすると怒られるかもしれないが、リエルは小額用の補助貨幣という印象が、ややもするとある。

しかし、カンボジアも西部、バッタンバン、シソポンそしてポイペットでは、ドルは一般的ではない。先ほどの、織物の村で布を買おうとしたときも、ドルではなく、じつはタイのバーツでいくらといわれた。高額の場合は、バーツがふつうである。プノンペンから、この地域に行ったときは、わざわざドルをタイのバーツに両替しなくてはならない。いわゆる、バーツ経済圏に所属するかのようである。

流通貨幣だけではなく、じっさいこの地域はタイの経済圏の中に、その生産物もくみこまれている。ただ、基本的には原材料供給地としてなのである。それは生産者にとっては低い、輸入者にとっては高い利益率をもたらすものといえる。織物と養蚕の村でも製品化された布は別として、原料となる生糸はタイに国境貿易をつうじ持ち込まれていた。そして、スリンの町の店頭で販売されていた。

この地域は、最近まで戦闘がおこなわれていた。そのため、カンボジアのなかでも、地雷の危険が高い地域である。そして、地雷の撤去をおえた地域は、地元の農民に分配されていくよりは、広大な農園が造成されている。そのなかには、タイの資本によって運営されているか、輸出されているばあいが多い。そこでは、唐辛子や豆類などが生産されている。地元の農民は、農業労働者としての地位を手に入れられる、だけ。

トンレサップ湖周辺は、豊かな米の生産地でもある。この米にしてもしかりである。この地域は、単一地主と思える大農場の稲田が目立つ地域でもある。

1年ほど前まで、プノンペンの米価は、タイよりも平均で3割ほど安かった。しかし、現在では同じ価格となってしまった。実質、カンボジア人は高い米を買わされていることになる。その時、米の値段は、何の前触れもなく、突如あがった。

カンボジアの最低賃金法では、月収40USドルとされている。ここでは詳しく触れないが、なぜか、教員や警察官など公務員の給与は平均20ドルである。タイの場合、約110ドル。この格差は、その生産物の生産コストに当然反映される、はずである。

タイでは、僅か10に満たない企業(ファミリー)が、タイの膨大な米の流通と輸出を掌握しているといわれる。その絶大な力は、カンボジア産の米の流通に大きな影響を及ぼしていてもおかしくない。なぜなら、タイで力をもつ潮州系華僑がカンボジアにも多く、流通、商業はそれら中国系カンボジア人の手の中にある。バイクで走っていて、国道沿いに、貧しい村人の家屋と対照的なほどに大きく立派な精米工場や、米の収蔵倉庫がこの地域で目に付いたのは、そのためかもしれない。

歩いて、ポイペットの国境ゲートを越えながら、ふと、うしろを振り返った。じつは、もう20年ほど前に私はここへ来たことがあった。もちろん、タイの側から。草ぼうぼうの、ずっと向こうにベトナム兵がいた。その時の風景をふと思い出した。

そのころ、国境上にはいくつもの難民キャンプがあった。そこにたどり着くには、ところどころに掘られた戦車よけの大きな溝をかわしながら、ブッシュのような森を抜けていった。そのそばには、ブラックマーケットとよんでいた市場があった。いまおもえば、それは、朝市のようなささやかなものである。ゲリラの兵士が市場を警護、ある種の緊張感があった。

現在では、カンボジア、そしてタイ側には驚くほど立派な市場ができあがっている。戦場は、いま市場となった。タイから運ばれてくる建築資材や日曜雑貨を満載した大型トラックが、通関を受けるために長い列を作っていた。このトラックは、帰りにはカンボジアから米をつんで帰るのではないのか、とおもってしまう。

ポイペットまでの約420キロを、まる2日かけ泥まみれになって、たどり着いた。3日目の朝、友人に見送られながら、国境を越えた。バンコクにはその日の午後、快適なエアコンバスで到着した。楽しかった、しかし身体にはすこしハードなドライブだった。でもまた機会があれば走ってみたい。オフロードフリークのあなた、是非カンボジアに一度おいでください。

1998年10月8日
プノンペンにて 森本喜久男

更新日時 : 1998年10月 8日 15:38

前後の記事:<< カンボジアンオフロード(中編) | 事故の後遺症(前編) >>
関連記事
カンボジアンオフロード(中編)(1998年10月 8日)
カンボジアンオフロード(前編)(1998年10月 8日)
最速のカンプチアエアー(後編)(1998年6月10日)
最速のカンプチアエアー(前編)(1998年6月10日)
ひさしぶりのオフロード(2001年6月19日)
村のできごと 「日本は天国だった‥‥」(1999年11月 9日)
後遺症、その後(1999年4月15日)
事故の後遺症(後編)(1999年4月 2日)
事故の後遺症(前編)(1999年4月 2日)
書けない言葉(後編)(1998年6月 8日)