IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
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事故の後遺症(後編)

事故は、12月15日の早朝8時。プノンペン市内の通称日本橋と呼ばれる、その橋に近い川沿いの道でおこった。混雑していたから、時速は30キロ以下だった。スピードを出していたなら、死んでいたかもしれない。と、いまおもう。バイクを自分で運転していた。瞬間、右前方から突然飛び込んできたバイクに、ぶつけられた。その後の、記憶はない。

現在のプノンペンでは交通法規などあってないようなもの、しんじられない走り方をするバイクなど日常なのだ。市内での用事だったから、遠出のときのようにヘルメットは被っていなかった。私はそのまま意識不明になった。その場で時計、眼鏡など所持品をとられた。

たまたま、とうりすがった知りあいが、野次馬兼こそ泥から私を助けてくれた。

その話は、私が意識を回復してから聞かされた。そして、警官が病院に運んでくれたらしい。もし彼女がいなかったら、私はそのまま身ぐるみはがされて、川に捨てられていたかもしれない、とスタッフが冗談でいう。でも、今のプノンペンだったら、そんなめずらしいことでもないような気がした。

私は運び込まれた病院で、ワンシーンだけ記憶が残っている。

私を取り囲んで覗きこんでいる人ひと。その中で、家に帰りたいと寝台車に乗せられながら叫んだのを覚えている。運び込まれた病院はプノンペンで、一番大きいといわれているところ。が、私の知り合いでそこの医者から、診断ミスを受け、なかにはそのまま手術をされそうになった人もいる。

それを知っていた私は、朦朧とした頭でもそこにいることはよくないと、多分無意識に判断していたのだろう。知人が、病院から私をオートバイタクシーに乗せ家に送りとどけてくれた。その日は家で寝たまま、記憶も確かではない。

次の日、意識はもどった。しかし、いぜん天井がぐるぐる回っている。トイレに行くにも、まず自力では起き上がれなかった。おおくは、寝てすごした。そして4日後、少し歩けるようになってバンコクに行き、そのまま入院した。そのころには、事故の時の頭にあった軽い外傷も薄皮がはり、その皮もはがれかけていた。医者は外傷はないと一言。

バンコクについて最初、保険会社に電話をした。そのとき、電話の向こうの女性は、私がオートバイの事故でこれから病院に行きたいと説明しても。彼女が最初に訊ねてきたことは、事故やケガの様子ではなかった。私が、オートバイを運転するための免許証をもっているかどうか、それが彼女の関心ごとであった。

私は、カンボジアにはオートバイの免許証の制度はないというと、彼女は信じられなさそうであった。

入院は4日間。ヒドイめまいがとれ、首を支えなくても普通に起き上がれるようになった。また、プノンペンでの仕事の予定もあったので退院した。プノンペンに戻っても、打撲した頭の2個所がいぜん痛かった。

年明けそうそう、再度病院に診察を受けにいった。そしたら医者いわく、それは私の気のせいだ、という。わたしは、その時は腹が立ち、医者を怒鳴ってしまった。直接的な頭の痛みは、一月末まであった。その後、痺れは最初、両腕先だけ。しばらくして右半身に痺れがでてくるようになった。

こんかいのことで、事故の後遺症をCTスキャンの検査だけで簡単に断言できてしまう医師や保険会社のスタッフに対し、チョットゆるせない気持ちが、私の中にできてしまった。それは、もう一つの後遺症のように。これも、タイによくある笑い話のひとつなのだろうか。

1999年4月2日

更新日時 : 1999年04月02日 15:56

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