IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
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後遺症、その後

4月7日、申請してから、一週間後に保険会社から、通院費などの、立て替え分は支払われた。シンガポールにある、代理店の担当者と交渉の結果である。

バンコクからプノンペンに戻る飛行機の中で、偶然SHAREという医療関係の日本のNGOスタッフと出あわした。後遺症や、バンコクでの病院と医師の冗談のような話を説明した。数日後、彼女から連絡があった。

プノンペンに、日本政府の援助で建てられた、国立MCHセンターという病院がある。妊産婦や子どもを対象にした病院だ。そこの、実質院長さんのような日本人のお医者さんが、この間の経過を知った上で、特別に診ていただけるという。

約束の日、病院に行く。患者さんは、100パーセント女性と子どもである。「明日、日本へ帰るんです」、と紹介された放射線の専門家。現地のスタッフトレーニングをかねて、首の骨のレントゲンを撮っていただいた。事故のあと、バンコクの病院に入院したときに撮った、首のレントゲン写真が普通でなかったことと、私の身体の状態を説明した。

じゃ、とりあえず撮りましょう、といいながら、角度を変えて6枚。撮りながらも通訳つきで、スタッフへの説明がはいる。しばらくして、「これは、痛かったでしょうね」と、出来上がってきたフイルムをみながら。ほとんど、一日意識不明だったからわからないんですよ、と私は説明。

頚推の一部が損傷しているのが、一枚のフイルムにはっきり写っている。お医者さんは、日本にいけるのかな。と、私にたずねてきた。精密な検査と治療のためには、日本へいかないとだめですよ、とつけくわえてきた。やっと、身体のしびれの原因がわかった。何故、身体を動かしたときに電気が走るのか。損傷した部分には、脳から神経が通っている、そこを圧迫されて、症状がでる。

バンコクの保険会社に、そく連絡。日本での治療について、すぐにはもちろん答えられないとのこと。自費で行かれるんでしたらかまいませんですけれど、というつれない返事。保険会社の返事はこないまま、3日後の4月15日、バンコクへ。B病院のCTスキャンとレントゲンのフイルムを、日本へ持参するために引き取りにいった。

残念ながら、私に、事故の後遺症はないと断言した、女医さんはいなかった。いれば、一言いいたかったが。

事故のショックで、まっすぐ伸びた首の骨のレントゲン写真を、手に入れた。何故この写真があり、患者が症状を訴えているのに、再検査をしようとしなかったのか。変な病院である。居合わせた看護婦さんいわく、あの先生は専門じゃないから。エ-、それで断言できるの。それを受けた保険会社に、冷たくあしらわれたのは、この私です。

保険会社の人もいっていたけれど、この病院は、王族の方も治療に来られる、バンコクでは由緒あるところらしい。だったらなに、そんな安易な診断も許されるといいたいの。まあ、人のクオリィティの問題か。ここで、言うのはよそう。フイルムを受け取って、夕方戻ってきたら保険会社から電話で、日本に治療に行っても良いとお許しがきた。

今朝、バンコクの事務所に連絡。まだ日本の本社から、連絡が入っていないという。 病院に行くまえに、シンガポールの事務所に電話をいれてみた。返答は、日本での治療はいいが、移動費用は出せるかどうかわからないという。もう一度、東京本社に問い合わせるとのこと、夕方に電話を入れてもらえるように頼んでいた。

12月の事故から、もう4ヶ月が経つ。今度は、保険会社はさかんに、治療期限は、事故の日から180日までです、と私に念を入れはじめた。まあ、お仕事だからと思いますが。でも、私はやっと原因が分かり、これから治療を始めるところである。断言するお医者さんと付き合い、一ヶ月は無駄に過ごした。


1999年4月15日
バンコクにて 森本喜久男

更新日時 : 1999年04月15日 15:56

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