2000年8月アーカイブ

筆一本の職人さん

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シアムリアップに住み始めて半年、なぜか不思議に筆を持ちたくなってきた。

わたしは、元京都の手描き友禅の職人さん。親方について、友禅の手ほどきを、というよりは、盗み見しながら腕を磨いてきたつもりの職人さん。

見習の当時、給料なんかは無くて、タバコ銭の小遣いだけ。しかし、そのぶんいい環境の中で学ばしてもらった。その頃中指には、ペンだこじゃなく筆だこがあたりまえのように在った。10年とすこし、素描、彩色、ローケツとキモノに絵を描いてきた。そんな染の職人さんが、包丁一本じゃなく、筆一本で、南の国のタイ、そしていまではカンボジアまで流れてきた。

タイに居た頃には、すこし描いていた。しかし、カンボジアにきて6年。これまでは、研究所の活動とでもいうのか、やはり仕事に追われてきた。それがすこし、一段落。シアムリアップに住み始めあたらしい課題にこれから向かおうとしている。そんな、ひとときのつかのま、か。

シアムリアップは、自然に包まれた遺跡の残るところ。そんな、土地の空気に触れながら、無性に自分の染をやりたくなってきた。

もちろん、研究所では毎日のように、絣の糸を草木で染めている。しかし、やはりおばちゃんたちとの共同作業。それだけでは、満足できない、そんな気持ちがムクムクふくらんできた。でも、あいかわらずのバタバタと動きまわる毎日。なかなか、筆を手にするまではいかなかった。染めるのであれば、ローケツ。筆も、京都時代の物を何本か手元においている。柄は、好きな、タイでは「ドックケム」という皐月に似た花。もちろんカンボジアでもよく見かける小さな花。

8月もはじめ、一週間ほどの時間が。一気に3日間で2枚の布を描き、染あげた。布はもちろん、研究所で織った黄色い繭からの糸の無地。染は、いい布があってはじめて活かされる。染が活かされる布。染屋のわたしの布=織物との接点、基本でもある。

色は、ベースはココナツの実の皮でベージュ。カユクニンの木の心材で黄色、そして、仕上げにラックカイガラムシの巣の赤を軽く。草木染めでのローケツは、ロー描きしたあとは常温染のみ、煮たくことはできない。とうぜん、堅牢度も必要。できあがりの布を、マレイシアのバテックの先生に見せた。もう、インドネシアやマレイシアでも、草木のバテックは皆無に等しい。化学染料で染めるバテックと、草木のバテックではとうぜん染め方が違う。さっそく、来年うちの研究所に生徒を連れて研修に来てもいいかという話になってしまった。

カンボジアの伝統織物の復活にたずさわるとき、自分自身が京都での友禅の見習い時代、育った環境がそのイメージの基本にある。わたしは、技術を教えるのではない。村のおばちゃんや若い織り手が、仕事をしやすい環境を整え提供する。技術は村の中に在る。その掘り起こしを手伝う。そんなことをしてきたつもりである。

地雷博物館の開設

彼は、英語、フランス語、日本語にも堪能で、1998年から旅行ガイドの免許をとり、現在の地雷博物館のあるところで暮らしはじめた。彼が家を建て住み始めたころ、その周辺にはまだ多くの地雷が残されていた。そして、その除去が彼の最初の仕事でもあった。最初、まわりには誰も住んでいなかったが、最近たくさん家が出来はじめてきたらしい。はじめは、そんな除去した地雷をならべて展示しはじめた。

最近、シアムリアップを訪ねる外国人の中でこの地雷博物館を訪ねる人がすこしづつ増えてきている。アキラ、彼の名前は日本人のよう、でも実は、クメール語でアキは、太陽の神を意味する、そして、ラは、速く走るものをさす。速く走る太陽神、それが彼の名前の由来である。

熱帯モンスーンのカンボジアでは、雨季と乾季ではその自然の表情は異なる。雨季のメコン川の増水に伴い、トンレサップ川は6月ごろから、トンレサップ湖に向かい逆流を開始する。昨年、ちょうど、6月15日、メコンとトンレサップ川の合流点、プノンペンでは、丸一日、川の水の流れが止まっていた。ほぼ24時間、そして満を期したように逆流を開始した。それは、とても不思議な光景であった。

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シアムリアップに住み始め、多いときは月に何度か仕事でプノンペンに行かなくてはならない。そんなとき、当研究所のような、弱小団体では片道US60ドルプラスの飛行機での移動なんていう予算はなかなか出てこない。とうぜんのことながら、安くて快適?なスピードボートや陸路を利用することになる。

アキラの地雷ツアー

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その前日、偶然夕食を地雷博物館を主宰するアキラ氏とともにした。

そして一声、明日いっしょに地雷取りに行かないかと声をかけられてしまった。え、一瞬戸惑い、しかし、気持ちに勝てづ。うなずいてしまった。話では、西洋人のジャーナリストが彼の地雷除去作業を取材するので、だったが、待ち合わせのレストランに行ってみると、総勢24人の大部隊。英、仏、米、豪、独の混成部隊に友人の日本人二人とわたし。それは、なんと地雷ツアー。

日本のマスコミにも紹介されはじめた、アキラ氏。カンボジア人の地雷専門家。こどものころから、ベトナム兵の先を歩かされながら、地雷の専門家になってしまった彼。27歳の元気な青年である。

数年前から、シアムリアップで、多くの人に地雷の恐ろしさを知ってもらいたいと、独自で地雷博物館を開設。彼は、独自の方法で信管を抜き地雷処理をする。このシアムリアップ周辺にもまだ多くの地雷が残されている。村人から地雷があるよと声がかかると、出かけていく。

ある日、昼前に地雷博物館を訪ねたとき、ちょうど地雷撤去を終え戻ってきた彼は芋でも袋から出すように、地雷を数十個取り出した。彼にとっては、そんな日々。

地雷ツアーに参加した、総勢24人とプラス、アキラ氏のスタッフは12台のオートバイとピックアップトラックに分乗、一路今日の現場の43キロ先の村に向かった。

現場に着くと、さすがにアキラ氏の顔は厳しい。いつもの、やさしい笑顔は消えていた。村を過ぎ、ブシュのなかに、道も細くなる。彼から、現場の状況が説明され、歩ける道についての説明。参加者は緊張する。ここから、さき20メートルはまだ地雷が残されている。彼は、金属探知機などは使わず、長年の経験と培った感で、その在りかを探る。

道具はごく普通の小さなスコップ。地面に探りを入れる。大きな蟻塚のそば、最初の一個は見つかる。合計3個。ロシア製と中国製。わたしたちは、ブッシュの中で見をかがめ、なりいきを見守る。

参加者と話をする。かれらは、興味本位ではなく地雷のもたらす深刻さをその身で知りたいとアキラ氏に現場訪問を依頼したらしい。リーダー格のアメリカのニューヨークポストの記者はカンボジアでの取材の最後がこのアキラ氏の活動。

以前、日本の某TV局のプロデュ-サー氏が取材を企画しながらも、最後の会議で安全性について、100%以上をもとめ、結局実現しなかった。そのことを思うと、今日のかれらは、気合がはいっている。

こんな、村人が毎日いききするすぐそばに地雷が残されている。これが、カンボジアの素顔なのだろう。そんなことを、あらためて見せつけられた、一日だった。

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