IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
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アキラの地雷博物館-地雷はもうたくさん(前編)

最近、シアムリアップを訪ねる外国人の中でこの地雷博物館を訪ねる人がすこしづつ増えてきている。アキラ、彼の名前は日本人のよう、でも実は、クメール語でアキは、太陽の神を意味する、そして、ラは、速く走るものをさす。速く走る太陽神、それが彼の名前の由来である。

彼は26才。しかし、本当は何歳か、彼自身も知らないでいる。それは、カンボジアの多くの村人がそうであるように、生年月日そのものにあまりこだわっていないことによるものであろう。が、あえて言えば、彼の生まれた年である、1975年。それは、カンボジアでクメール・ルージュ政権が樹立された年でもある。

その時、村で小学校の先生をしていた父親は、多くの知識人と同様に殺されてしまった。そのため、彼には父親や母親の記憶はない。生まれたばかりの彼は、他の同年代の子供達と同様に、集団キャンプに暮らし、そのなかで母親代わりの女性に育てられている。
実は、その母親代わりであった56歳の女性と最近になって再会、いま地雷博物館のあるシアムリアップで、本当の親子のように2人で暮らしはじめている。もちろん、兄弟がいたのかさえも彼の記憶にはない。

なぜ、地雷の専門家になったのか

79年1月カンボジアに侵攻してきたベトナム兵。しかし、彼のいた、シアムリアップにベトナム兵が姿をあらわし始めたのは、1983年頃。最初に、彼のいた村ではポルポト派の兵隊とベトナム兵との戦闘がしばらく繰り広げられた。ポルポト派の兵隊にかわってベトナム兵が村に駐屯。彼のいた子どもグループはベトナム兵に連れていかれ、兵隊と暮らし始めた。その時ポルポトが悪いことを教えられ、そのうえで、ベトナム兵のグループに兵隊として入れられた。

彼は、まだその時、10歳そこそこであった。それから、シアムリアップからバッタンバンにかけての地域でベトナム兵と戦闘を共にした。

そのとき、彼は地雷の撤去の方法を、実践の中で学んでいった。ベトナム兵の前を彼と同じようなカンボジアの少年兵が先に歩かされていた。そのとき、地雷を早く見分けられるかどうか、見つけた地雷を安全に処理できるかどうか、それは彼にとってそのまま死活問題であったはずである。

そのころの、地雷にからんだベトナム兵と彼のエピソードの話は、おかしく、でもとてもシリアスな当時の彼の生活をよくあらわしている。

ベトナム兵が野生の熊や猿を、食料として捕獲するために地雷を使った話。そして、ある戦闘のとき、ベトナム兵の将校の前を彼が歩かされていた。そして、右足、左足。アキラの足跡と違う足を、その将校は気の緩みか、出してしまい、地雷に触れてしまった。

彼のそんな生活は1989年、ベトナム軍がカンボジアから撤退するまでつづく。ベトナム兵の撤退した後は、カンボジアの軍隊に所属しながら、夜間の学校に通い、読み書きを勉強しはじめた。それは彼が15歳のときである。

国連軍との連携

カンボジアの国軍に所属していた彼は、1994年から国連軍UNTACのフランス人の専門家と地雷撤去の仕事を開始した。当然それは、彼の地雷撤去の技術と経験を評価されての事であった。その間3年半、COFRASやCIDEVなど、地雷撤去のための国際機関で働いていた。

その後、1997年から自分で地雷撤去の仕事を始めた。多くは、村の人が農作業をしながら地雷を見つけると連絡してくる。そして、元ポルポト派も元政府軍の人たちも、自分で昔埋めた地雷の撤去を依頼してくるようだ。と、彼は笑う。

アンコールワットの遺跡周辺にも多くの地雷が現在もあり、やはり昔自分で埋めた人たちがどこにあるか教えてくれるようで、現在もその撤去に従事している、これはまったく彼が自主的にやっていることである。

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(後編につづく)

更新日時 : 2000年8月18日 16:17

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