IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男

バッタンバンからの報告

昨年(99年)8月から動き始めたバッタンバンの養蚕プロジェクトは、ひとつの壁に突き当たった。9月にはいり、ひさしぶりにバーンアンピル村を訪ねた。今年の2月、村に届けた桑の苗木の成長を期待してだった。が、桑の苗木は3月、4月の乾季の暑い日差しに耐えられず、枯れてしまった、という。そして、残った桑の木も放し飼いにされている牛の餌に。

このバッタンバン県のラタナモンドル郡は、97年ごろまでポルポト派と政府軍の戦闘の一番激しかった地域。当時、バッタンバンにある病院も戦闘の負傷者であふれていた。村の中には、防空豪が残り、ロケット弾や銃弾の跡がその戦闘の激しさを物語っている地域でもあった。そして、いまなお多くの地雷が残され、その被害は現在も続いている。
クメール伝統織物研究所では1995年7月から、プノンペンの南、カンポット県のタコ-村で、伝統的な養蚕の復興プロジェクトを開始。紆余曲折を経ながらも、現在では60家族のメンバーが小規模ながらも、村で生糸まで生産する、伝統の養蚕を続けている。ささやかながらも、プロジェクトは村に根付いてきた。

1970年代以前、カンボジアはこの東南アジアの中でも養蚕が盛んな国であった。しかし、70年代にはいり隣国のベトナムでの戦闘がカンボジアにも波及、多くの村は戦場となっていった。そして、内戦の時代を迎えていく。戦争のもたらす混乱は、そんな伝統的な村での養蚕をも途絶えさせた。
日本のように農家が繭を生産、製糸工場に出荷するという、近代養蚕はこの地域には存在していなかった。基本は生糸の村人による自家消費を前提にした、小規模養蚕。バッタンバ県も昔、そんな養蚕が実施されていた地域であった。ラタナモンドル郡の村には、当時の桑の木が現在も残されている。しかし、村には養蚕の経験者はいない。カンポット県のタコ-村には、そんな年配の経験者がわずかながらもいた。96年、ラタナモンドル郡の村で、アメリカのカソリック系のNGOが、地域の女性の収入向上プロジェクトとして、縫製や織物技術研修とともに養蚕プロジェクトを実施、そのNGOの看板プロジェクトであった。しかし、プロジェクトは1年半で中断されていた。そのときの経験者から、再び養蚕をやりたいという話しが、わたしたちのところに届いた。

約2年前、村を訪ね話し合った。問題は、生糸の市場だと言う。それならば研究所が出来あがった生糸を買い取る事ができる。話しは成立。カンポット県タコ-村の生糸も同じ。研究所の伝統の絹織物復元にとって、在来の熱帯種の生糸は必要なもの。そして、昨年8月、松本市の造園業を営む赤穂正信さんが助っ人で現場に来てくれた。彼の指導で、バッタンバンで1000本の桑の苗木を準備。同じ頃、日本では「桑の木基金」が動き始めた。今年の2月、日本から桑の木基金の支援者を迎え、育った桑の苗木400本をバーンアンピル村に届けた。他の600本は、バンティミエンチェ県のポイペット地区の村に。ポイペットの苗木は、乾季の乾燥の中で、ダメージを受けながらも、現在は順調に成長。1メートル以上に伸びている。同様に、ラタナモンドル郡の苗木も育っているはず、であった。しかし、残念ながらほぼ全滅していた。

村の代表と話し合った。なぜ、疑問があった。理解できたことは、届けた苗木を、村長たちが養蚕の経験者ではない農家に渡していた。事前の話し合いで、経験者の中で始めていくことは確認していたはずであった。そして、村長から桑の木を管理する費用をくれないのか、という話しが出てきた。村は貧しいから、とつけたして。研究所では、村でセンターを作り村人を雇う方法よりも、個々の村人が自分の営利活動として進めてくれるほうが、自立につながると考えている。

話しながら、プロジェクトを実施することで何かを期待する姿勢が、村長たちから見えてきた。カンポットのタコ-村でも、プロジェクトの開始時期に、村長から「お買い物リスト」を受け取った。しかし、本当に必要でないもの以外は、わたしたちは無視した。プロジェクトの運営にともない、何か余分の物を期待されてもわたしたちは、何かをあげられる立場にない。これは、基本である。わたしたちは、小さな種を提供する。時には、その種を植えるために必要な鍬も。しかし、そのあとは村人自身の努力が基本。だから、本当にやる気のある村人と出会う事が大切だと考えている。

貧しい人たちの自立を助けると言いながら、援助漬けにしてしまい、もらう事に慣れさせるような支援の方法は、意味がない。それでは、村人は口をあけて待っているだけになる。援助とは、「物」をあげることではない。
人間の欲は大切である、それは、やる気につながるから。しかし、貧しいからと言って手を動かさず、口をあけて待っている欲は、人間をだめにする。これは一つの例だが、国連やNGOなどの実施するセミナーなどで、人を集めるためになのか、参加者に参加費を提供する習慣がある。しかし、沢山の人が参加することが良いこと、ということでしかないと思える。
多くのプロジェクトは、そのプロジェクトの実施期間が過ぎると、消えて無くなることが多い。それは、そんなこととも関連している。タコ-村の養蚕プロジェクトは、ポンさんという一人のリーダー格の村人との出会いがあったことも、成功の要素であった。彼は、村の縦割りの行政組織ではない、人であった。彼自身が、やる気を持っていてくれ、他のメンバーを引っ張ってくれた。そして、わずかづつだが生糸の生産により、村人に現金収入がもたらされた。そして、遠巻きにしていた他の村人が、回を重ねるなかでメンバーに加わってくれた。タコ-村でも、裕福な村人はメンバーに参加していない。家族が十分に食べられる米が不足している村の人が、熱心に協力し合っている。

こんなことがあった。12月の収穫前、10月のなかば頃。ある養蚕メンバーから、家の米びつが空になったと訴えられた。聞くと、数家族がそうであった。そのとき、わたしたちは米を届けなければと思案した。しかし、残念ながらわたしたちにはその余裕が、予算がなかった。結果的には、それが良かったのだが。
次の月、気になりながら村を訪ねた。でも、村人の顔は元気なのである。聞くと、村のそばの山に入り、薪を集めて市場に売りに行き、米を手に入れたと言う。なかには、米はないが芋があるから、大丈夫だと笑っている。まだ自然の恵がこの村には残されている。あるとき、村で出来あがった生糸を買い付けていたとき、顔見知りになったおばあちゃんが、ポツリと言った。これで、お金(現金)がいるときに、残り少ない米を売らなくても良くなった、と。わたしたちの養蚕プロジェクトは、小さな村おこし。だから、バッタンバン県のバーンアンピル村でも、開始時は養蚕をやりたいと思ってくれている数家族で良いと考えてきた。それよりも、確実にそれが結果を生み、他の村人が参加してくれるようになればと考えてきた。

ふたたび村人と話しながら、やはり養蚕をやりたいと言う声があった。しかし、今回と同じ結果を出さないために、いまその進め方をもう一度、点検しなくてはならない。そのための話し合いを準備している。タコ-村の場合も、最初に届けた蚕の卵は全滅した。そして、2度目に届けた繭が無事生き残った。
そんな経験を、わたしたちは持っている。この村も、村人の中にやりたいと言ってくれる人がある限り、わたしたちは継続していきたい。二人目の、ポーンさんと出会うために。

更新日時 : 2000年09月27日 09:05

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