2001年2月アーカイブ

■■ バ イ ヨ ン の 月 ■■

 月夜の中で見るバイヨンは素敵である。
 アンコールの時代から人々はこの月夜に浮かぶ、バイヨンを見つ
 めていたのだと思うと、うらやましくなる。深々とした木々に囲
 まれたバイヨン寺院。その自然環境を支えてきたクメールの人々
 に敬意を表さずにはおられない。
 長く続いてきた内戦の中にあってアンコールの遺跡群を取り囲む、
 その豊かな自然を守り抜いてきた人々。これは、簡単そうで、な
 かなかできるものではない。

  ■消えゆく自然■

 人間の欲は限りない。木があれば切りたくなる。そんな例が進行
 している。昨年、カンボジアの東北部、ベトナム、ラオスと国境
 を接する、ラタナキリ県に出かけた。クメール語で「宝の山」と
 いう、山の人たちも多く暮らす地域といわれてきた。
 そんな期待をもって訪ねたが、しっかりと、その期待は裏切られ
 た。飛行場のある街に近づくと、林のように見える木々は植林さ
 れたゴムの木。あとは、ほとんど寂しい限りの状態。国境のベト
 ナム側にある高い山の麓まで、平らに見渡せてしまう。タイの北
 部でも、よくこんな禿山状態を見てきたが。たいしたもの、木は
 切るだけ。もう「宝の山」なんて地名は返上しなくてはならない
 のでは、と思ってしまう。でもまだ土の中には、宝があるのかも
 しれない、が。

  ■最後のモンスーン林■

 アンコール遺跡のあるシエムリアップにはその背後に、プノムク
 ーレンと呼ばれる山並みがある。海抜は400メートルほどの低い
 山並み。だが、そこには、アンコールの時代に作られたレリーフ
 やリンガなどの遺跡が、川の流れの中に今でも残っている。

 この山並みの中に、2年程前までは、樹齢100年以上の樹々が
 林立する熱帯モンスーンの自然林が残されていた。それは、すば
 らしいものであった。しかし、今はもうその姿をみることはでき
 ない。

 もう10年以上前になるが、ある大学の林野の専門家たちとタイ
 の山を歩き回ったことがある。それは、どこかに、熱帯モンスー
 ンの自然林が残されているのではないかという、希望とも言える
 仮定の上であった。しかし、あのタイでさえというのであろうか、
 当時既に、そんな自然林はどこにも残されていなかった。
 熱帯雨林と熱帯モンスーン林は違う。モンスーン林は基本的には
 チークやフタバガキ科の木などが中心となって形成された熱帯疎
 林。
 2年前にあの森をはじめて見たとき、だから、なおさらであった。
 感激とでも言うのだろうか。本当に、樹齢100年以上、200
 年ほどの樹も在ったのではないだろうか。高さ30メートル級、
 もしくはそれよりも大きい、そんな樹が林立し、その間には一回
 り小さな木々が、といっても大きな樹が、うっそうと茂り、その
 間に自然のままに小さな木々や植物が。
 本来ならば、こんな自然環境に遭遇するためには、かなり山の中
 を分け入らなければ見られないもの。しかし、たまたま、新しく
 できたばかりの、車が通れる道路から偶然それが見えてしまった。

 遺跡などをよく視察される、タイのシリトーン王女が、その山の、
 カバースピンと呼ばれる川の中にある遺跡をご覧になられるため
 に、急遽整備された道路。あの地域は、もともとカンボジアの人
 たちにとって聖なる山。そして、カンボジアの内戦の中で最後ま
 で、ポルポト派がたてこもっていたところ、のひとつ。しかし、
 96年末には投降。
 わたしを、そのエリアに最初に案内してくれた、ドライバー氏は
 ブルトウザーが通り過ぎたばかりの、その出来たてほやほやの道
 を指差しながら、ここは以前、といっても数年前まで、この道路
 をはさんで、政府軍とポルポト派の軍隊が激しい戦闘を繰り広げ
 たところだと説明してくれた。
 97、98年の最後の内戦も終え、いまは戦場でなくなった。そ
 して、道路が整備され、その次に、当然のように木は切られ始め
 た。
 何とか残せないものかと、少し調べたりもしたが、国連機関やOD
 A関係でも、そんな自然林が在ることは全く知られていなかった。
 そして、インターネットを通じて、日本の環境保護団体などに連
 絡してみたが、受け取ってくれた、団体の職員の方は好意的であっ
 たが、それ以上どうしようもないことであった。
 それから、何度かその地域に足を運んだ。驚くことに、行くたび
 に、林立していた樹々が消えていくのがはっきりとわかる。最後
 に足を運んだ数ヶ月前には、そんな樹齢100年を越えるような
 樹は、見事に跡形もなく消えていた。そして、どこでもよく見か
 ける、樹齢せいぜい20、30年の木がある、普通の森になって
 いた。
 人間だって、100年生きることは大変なんだぞ。200年も生
 きてきた木を、何に使うのか、そんな簡単に切るなよな、と言い
 たくなる。
 またひとつ、カンボジアから自然が消えていった。こんなふうに、
 自然が消えてゆくことなど、このカンボジアをふくめて、今日の
 社会では、そんなに珍しいことではないのかもしれない。
 しかし、それをまのあたりにしてしまうと。

  ■もうひとつのバイヨン■

 アンコールワットからアンコールトムにいたる地域は、ご存知の
 ように、現在その周辺の木々が残されてきている。そのなかには、
 多くの樹齢100年を越すような樹があり、遺跡を取り囲んでい
 る。それらの生い茂る樹により、すばらしい自然環境が維持され
 ている。
 エアコンの効いた車で回られる方は、残念ながら体験できないの
 だが、アンコールワットの手前、料金所を過ぎたあたりから、そ
 の気温とともに空気が変わりはじめる。それは、アンコールトム
 の、バイヨンの手前参道というのだろうか、あの南大門を過ぎた
 あたり、木々が深く覆い茂ったところまで。すばらしい、森林浴
 の気分にさせてくれる。高級ホテルのエステも、それはそれでい
 いと思うけれど、自然の木々とその空気に触れながらのリフレッ
 シュほどすばらしいものはない。
 しかし最近、アンコールワットの手前、料金所のところあたりか
 ら、大きな木が以前に比べて少なくなってきているような気がす
 る。だからか、以前のように、空気の大きな変化が感じられなく
 なってきた。
 国の事情なのだろうが、2年程前から、アンコールの遺跡全体が、
 民間の管理会社に委託されるようになった。やはり、管理の目的
 からか、アンコールワットに6時以降、入れなくなった。以前は
 夕日をゆっくりとアンコールワットに腰をおろして眺めることが
 できたのだが、それも今では無理となってしまった。
 
 ユネスコの世界遺産に指定された観光地、アンコール遺跡を展示
 するという風に変わっていかないで欲しいと、願う。ある日、気
 がつけば、アンコールを取り囲んで茂っていた樹々が無くなって
 いる、そんな日がきてしまうのだろうか。それは、もうひとつの
 バイヨンを意味する。

 


クメール伝統織物研究所
森本喜久男

みなさん、お元気でおすごしでしょうか、ごぶさたいたしております。しばらくお休みに、しておりましたメールニュース、ここに、やっとだすことができました、少しながい文章になってしまいました、ですがさいごまで、読んでいただければ幸いです。

森本喜久男


<雨にも負けず>
研究所には現在約40名の研修生がいる。その多くは、毎日、周辺の村から自転車で通ってきている。年齢は17歳から23歳ぐらい、なかにはお母さんの30歳前後の人も数人。子づれで仕事に来る人も、すべて女性。伝統的に織物は、女性の仕事としておこなわれてきた。

そのなかには、遠く15キロほど離れた、アンコールトムの北側の村から来ている子も数人いる。雨季の後半に入った最近では、朝方に雨が降る日もある、そんな雨のなかでも約1時間半、村から自転車をこいでメゲズニやってくる。こちらでは、あまり傘をさす子もいない。雨合羽もなく、とうぜんずぶ濡れになってやってくる、なかにはスコールのような、激しい雨の日もある、がそれでもメゲズニ、である。それを見ているだけで、頭が下がる思いがする。

研究所には、現在3人のおばあちゃんが、彼女たちは大先生。いわば師匠である。その下に5人ほどの熟練した中堅の織手がいる。そして研修生。研究所では、昔村でお母さんが娘さんに教えていたような方法で研修生に織を教えている。期間は、最低3年、場合によっては4-5年と考えている。そのぐらいの期間は最低かかる。まあ、修業。一人前の織手になって、村に帰り、自分の家で独り立ちできる、そのためである。
3人のおばあちゃんは、それぞれ織りの産地である、タケオ県の村から。60歳から65歳。カンボジアの織りの伝統は彼女たちの血の中にある。その経験と技術をどれだけ、若い人たちに伝えられるか、それはわたしたち研究所の仕事である。

シエムリアプにやってきて、1年と8ヶ月。研修生の何人かはもう1年と半年ほど経つ人も。何人かは、今では織機に座っている。一年ほど生糸をきれいにする作業などをへて、糸になれてきたころ、織機に座りたくなる。そんなころを見計らって、あたらしい織機を準備する。織機も現在9台になった。ここ数ヶ月のあいだにあと何台か用意しなければならない。またタケオの村から、大工さんを呼んで織機をつくらなくては、とおもっている。


<職人気質>
わたしも、京都の染織の世界で育った人間。タバコ銭といわれるわずかの給料で修業した。しかし、そのなかで学んだことは多い。そんな自分が育った職人の世界。それが今、このカンボジアで戦乱の中で失われかけていた伝統の織物を再生するために、役立ち、そして必要だと思うようになった。戦乱以前には間違いなくこのカンボジアの中に、すばらしい織物を創りだしていた伝統工芸の、そんな世界があったことを知ったからでもある。といっても、研究所の弟子?いや、研修生には普通の給料を払っているが。

最近、ときたまキモノで描いていたローケツ染を、研究所で織られた生成りの布にすることがある。染屋のわたしが染めたいと思える布がやっと織れるようになってきた、成果なのだが。染めながら、ふと自分が教わった親方たちのことを思い出したりする。
ヘンな話だが、それから30年。わたしも当時の師匠の歳に近くなりつつある。あのころ、若手の同期の連中と勉強会と称して、師匠の仕事を真似しよう、盗もうと必死だった。しかし、当然のことながら、そんな簡単に盗めるものではなかった。そして、そのことを今、自分がこの歳になってあらためて、そらそうだよな、と、思うようになったのである。いまから思えば、わたしたちの、ローケツ染の師匠の仕事は、神業。もちろん、いまのわたしにもとてもその足元にも及ばないもの。それを、1年や2年ほどかじっただけの若いのが、30年40年の経験の技を盗もうとする、それ自体に無理が当然あったわけ、なのだが。

研究所のおばあちゃんたちの仕事を見ていて、それを思うこともある。彼女たちは、もう40年、織りをしてきている。それはゆるがせない。まわりで、はじめてまだ数ヶ月の若い子がばたばたやっているのを、おばあちゃんがときには冷たく、ときには軽く怒鳴りながら面倒を見てくれている。そんな、合い間を縫って、おばあちゃんはすごい仕事を仕上げてくる。タケオの村から来てもらっているから、研究所の一角に同居してもらっている。でもお休みの日曜日も何か、こそこそという感じで仕事をしていたりする。彼女たちには、職人の心のようなものがある、それはいいものを作りたいという欲求である。それは誰かに強いられるものではない。身体の内から沸いてくるものである。

まだ戦乱のおさまらなかった6-7年前。タケオなどの産地の村を廻りながら、そんなおばあちゃんを捜し歩いたことがあった。当時、村で織られた絣の布は仲買人に買い叩かれ、安い値段に抑えられていた。そのなかで研究所の最初の仕事は、そんなおばあちゃんたちを励まし、いい仕事をして貰うことだった。

古い布のサンプルを渡し、仲買人が出す値段の倍、3倍の値段で織ってもらった。彼女たちの腕に見合った仕事をしてもらい、それを支払う。その関係を村の中に作りたいと思った。なかには、子どものころにお母さんの織りを手伝いながら、絣の一番重要な柄を括り染めることをやっていた、おじさんがいた。わたしたちが村の腕のいい織手を探し、布を織ってもらっているのを聞きつけ、自分も昔の柄を再現し始めた。彼の手が覚えていた、それはすばらしい柄であった。いま、彼は村で雑貨屋を営みながら、その側で絣の括りに余念がない。それから数年、プノンペンの市場のシルクを売る店のおばさんから言われたことがある。「あんたが、高く買うから、わたしたちも安く買えなくなった」とぼやかれた。でも私は言う、高く買っても、ちゃんと見合った値段で売れているのでは、それを選ぶお客さんもいる。村の腕のいい織手の、いい仕事を正当な価格で評価するようになってきた。買う人から見れば、安いほうがいい、しかし、作る側から見ればそれが適正な価格で評価されなくてはならない。でなければ、いい仕事も死んでしまう。日本でいえば、人間国宝級の仕事をできるおばあちゃんが、二束三文の仕事をしている、それは違うはずである。

さいきん、こんなことがあった。ここ数年、日本の雑貨を扱う人たちが仕入れでプノンペンに訪れるようになった。それはいいことである。しかし、そのなかには値切る、安く買い叩くことが目的のような人たちがいる。市場で野菜を買い叩くように。その結果、シルクだといいながら、シルクでないシルクもどきの化繊の布が出回り始めた。日本の流行のアジア雑貨屋さんは、その見分けがつかないでシルクだと店の人にいわれて、すこし変だと思いながらも、それを日本に持ち帰っている。プノンペンの、シルクの店の人たちは、買い叩かれるから、と、質を落としてゆく。これは、悪循環である。じつは、この仕入れに来ているアジア雑貨屋さんとシルクの店も、ともに流通の人たち。布の作り手でもなければ、使う、身にまとう人でもない。だからできることなのでは、とおもえてしまう。

たしかに、職人のいいものを作りたいという欲求と、価格は矛盾するのかもしれない。しかし、その狭間で物が出来ていくとすれば、それはそれで納得できる気がする。職人としては、妥協のない自分の持てるものをフルに活用し、いい物を創りたい。しかし、それは、使い手と作り手の間にコミニュケーションが存在していることが前提なのかもしれない。今風の言葉で言えば、マーケッティング。しかし、生産効率と価格が大切な消費文化はそんな関係をかまっていられなくなった。そして大量に生産されたものを流通させてゆくためのシステムができあがり、その消費を促進するためにファッション、つまり流行が造られ、大量消費を促進、ごみ社会ができてきた。その結果か、品質よりも、情報としての見た目や能書き、そして流行が優先されていく。そして価格。そのためか、バイヤーと呼ばれる仕入れ担当者は買い叩くことが基本になり、生産者の思いとは違うものになることも多い。

プラスチックスのような大量生産形のものと、工芸品が同じレベルで扱われていくことは、やはり耐えられない気がする。布にはそれを作り出した、一人一人の織手の気持ちがそこにある。そして、わたしたちは、布を作りながら、その布が10年、20年使われていくことを考えている。そのために、伝統のなかで培われてきた素材や技術をいかしている。今風の、流行や消費とは違うものである。たとえば、自然の材料で染めた色は、染めたときに命が始まり、年数を増すごとに色に深みが出てくる、化学染料の染めたときがベストであとは退色していくだけとは根本的に違うものである。自分でも、10年程前に染めた布を、たまたま引っ張り出し、その色の輝きに驚かさせられたことがある。以前こんなことがあった、日本のアパレル業界の人たちと、布の話をしていて、そんな自然の染めの特徴を説明していたとき、「色が綺麗になるのがそんな先では困るのですよ」といわれてしまった。
シルクかシルクでないかわからないバイヤーの人たちの手に、研究所のおばあちゃんたちの仕事を渡したいとは思わない。それは、タケオの村の、おばあちゃんたちの仕事も同じである。

<自然の恵み>
聞きなれた言葉である。自然の恵み。

自然の草木を使う染色もその一つである。研究所でも、カンボジアで伝統的に使われてきた、ラックのカイガラムシの巣で赤、ブロフーの木で黄色などを染めている。あたらしい染め材では、椰子の実やバナナの葉なども使っている。これらは、ときにはゴミとして捨てられたりもするもの、でもそこから、すばらしい色が生まれる。

しかし、その染材となる木を自然の恵みといって貰っているだけではだめではないのかと、思い始めた。森も木もしかり、切るだけでは、いつかは手に入らなくなってゆく。ラックと呼ばれるカイガラムシの巣も以前はカンボジアでたくさん生産されていた。しかし、戦乱の中で、ラックが生息していた木が切られ、現在では壊滅してしまった。古い布を見ていると、ラックの鮮やかな赤い色が目に付く、しかし、いまその色を再現することは難しい。一つには、その布が経た年数のなかで、かもし出されてきた深みもある。が、もう片方で、身近にラックが生息していないため、新鮮なラックの巣を手に入れることは出来なくなってしまったそのことにも由来している。

カンボジアの村々を調査でまわりながら、見えてきたことがある。それは、戦乱の始まる以前には村人の手の届くところに、ラックカイガラムシだけではなく、自然の染め材となる木や、綿花や桑の木があり糸を手にすることができていた。そして織機や必要な道具を作るための木も、伝統は自然の環境の中で培われてきたものである。自然と人の共有、それが伝統を形作ってきた。そして、その自然を人が破壊することで、伝統も破壊されてきた、といえる。7年前に、カンボジアの伝統的織物を復元するために、研究所が最初に手をつけたことは、村でおこなわれてきた伝統的養蚕であった。そのために、桑の木の苗木を準備し、そのための土作りにも取り組んだ。

いま、自然から恵みを受け取るだけではなく、返していくことをもしなくてはいけないこと知った。てはじめに、染色に使う木々の苗を準備し始め、そして、ラックカイガラムシが生息できる森を再現したいと考え始めた。それは小さな森、生きた森とよべるものである。伝統の復活には、その背景となる自然の復活が不可欠なことである。豊かな自然なくして豊かな伝統もありえない、それがいまわたしたちが、たどり着いた伝統への理解である。
そのためのプロジェクトとして、シエムリアプにおいて「鎮守の森計画」の準備に入り始めた。鎮守の森、それは日本でも村の生活を支えてきた自然の森を象徴していた。そして、そんな自然に対する村人の畏敬の気持ちがそこにこめられていたように思える。それはカンボジアの精神世界の中でも自然に対する人々の思いは同じである。これから動き始めるこの「鎮守の森計画」に皆様のご理解とご支援をここにお願いいたします。


クメール伝統織物研究所
森本喜久男

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