IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男

太平洋を越えてしまった森本より(3)

こんかいのマサチユーセツ、ワシントンDC、そしてシアトルという初めてのアメリカ巡業でほんとうにいろんな人たちと出会うことが出来た、それが一番の収穫のような気がする。その多くはもちろん東南アジアの布が好きな人たちだが、その彼女や彼らがそれに興味を持った、そのきっかけの少しでも知り話すことが出来たことが、とてもよかったように思う。そして、訪ねた三っの町はそれぞれ違う性格を持っていた。でも、なんといっても最後のシアトルの大きなロキード社の飛行機の工場の横に、アジア人が沢山暮らす、そんな町の風景が面白かった。昼飯に寄った下町のバラックに毛が生えたようなベトナム人のヌードル屋に、ちょうど日曜日で少し着飾ってやってくるアジア系の家族ずれを見ながら、美味い米の麺を食べた。その味はたぶんしばらく忘れられないだろう。

移民の歴史

マサチューセツであった5日間のアメリカテキスタイルソサエティー(TSA)のシンポジュームの最後のプログラムであった、参加者との日帰りのツアー。ボストンのミュージアムのテキスタイルのコレクションを見に行くグループや、やはり古くからの布のコレクターの豪邸を訪ねるツアーなどがあった。が、わたしはアメリカの産業革命の発祥の地、おなじマサチューセツのロウエルの町を訪ねるツアーに同行した。

だから、今回はこの町を入れれば4っの町を訪ねたことになる。ここには約百年ほど前に大きな紡績工場がいくつもあり、とても栄えた町だった。ちょうど日本の野麦峠のような女工哀史の歴史があったところ。その女工さんの多くはポーランドやギリシャ、そして多くのユダヤ人も含まれていた移民の人たち。彼女たちが暮らしていた宿舎や生活用具がそのまま記念博物館になっていて、当時の生活の様子を伝えている。そのなかに展示されていた、彼女たちの日記に、早く自分の家が持てるようになったら、とほんとうに蚕棚のような宿舎に暮らしながら思い描いていた夢が記されていたのが印象的だった。

南部の有名な綿花畑の黒人奴隷の歴史とともに、アメリカの歴史はそのまま移民の歴史でもある。そんなことを、あらためて教えられた。そして、なんとじつはこの町には難民となったカンボジア人が2万5千人も移り住んでいる。残念ながら、そんな彼らとはそこでは出会えなかった。でも、最後のシアトルの大学で、シンポジューム会場の準備を手伝っていた7歳まで難民キャンプで育ったという女子学生と話すことが出来たが。

スミソニアンの布

こんかいのアメリカ行のもうひとつの大きな目的は、スミソニアン博物館に保存されているといわれている、タイのモンクット王がフランクリン大統領に1856年に寄贈した品のなかに含まれていた、カンボジアの絣の布を見ることであった。のん気なのだが、そう思いながらも事前に連絡をしていたわけではなかった。普通に展示されているぐらいに思っていたのだが、じつは郊外の収蔵庫に保管されていた。それを見るために、旧知のスミソニアンの学芸員の友人が骨をおってくれた。感謝、そして幸運なのだろう、普通であれば数ヶ月前に書類を提出、許可を取ってということらしい、でもその日に訪ねて、見て、触ってしまった。わざわざカンボジアからその布を見にきたということも、保存庫の担当者の好意を得ることが出来た理由でもあるが。翌日、昼食をともにした、カンボジア大使もそんな布があることさえ知らなかった。

その布は非常に丁寧に保管されていた。実際にはもっと古いものも現存しているのだろうけれど、現在わたしたちが知る年代が確定できるカンボジアの布の最古のものということになる。4点の絣の布があり、華奢な絣の柄のリピードもさることながら、その色の美しさにはあらためて驚かされた。とりわけ、藍色の美しさはなんともいえなかった。これまで、随分いろんなコレクターの方が持っている古い布を見てきたつもりだったが、これほどきれいな藍色が出ている布は見たことがなかった。もちろん、その柄の美しさもさることながら、当時タイの王様がカンボジアの織手にオーダーして織らせた特別の布である、そんな当時のカンボジアの織手の、その技の証なのだろう。

ちょうど東京の赤坂あたりのような、ワシントンDCのオフイス街にある洒落たカンボジア人のオーナーシェフがいるシーフードの店。そこで、カンボジア大使と昼食をともにしていただいた。そして、ワシントンに暮らす人たちのカンボジアの布が好きな人たちの中で、カンボジアの布の展示会をワシントンDCで開催しようという話になった。もちろん、まだこれからだけれどもその可能性は一歩進んだように思う。

そして、ワシントンDCでは念願のテキスタイルミュージアムも訪ねた。1990年にわたしがまだバンコックでシルクの店をやっていたころ、彼らが訪ねてきた。そして、東北タイの自然染色のレポートを依頼された。そんなことがきっかけで、スミソニアンの学芸員の人たちとも知り合った。それが、もう10年ほど前、それいらい機会があればバンコックで顔を合わしたりしていた。そのなかの人類学者のリーダム氏。じつは彼がわたしのカンボジア行きの最初のきっかけを作った人でもある。彼がカンボジアのユネスコにわたしのことを推薦してくれた。不思議なものである、そして、まわりまわって今度はわたしがスミソニアンの布を見に訪ねてきたのだから。DCでは彼の家に泊めてもらった。そして、スミソニアンのいくつかあるミュージアムショップのなかでも、いい品物を置いているサッカーギャラリーのショップに研究所の布が置けるようになった。ショップの担当者が布を見て、触って、もうそれでOKだった。うれしいことである。こんかいアメリカに研究所の布を少し持っていったのだが、TSAのシンポジュームの会場でも好評だった。何枚かはそこで、売れてしまった。

そんなに時間があるわけではなかったけれど、ひろいスミソニアンミュージアムのいくつかを覗いた。そのなかで、アフリカンアートのミュージアムがあったことと、建設中のアメリカインデアンのミュージアムが有名なスペースミュージアムの横に建設中であることが印象的だった。

ワシントン大学

無知なのだが、シアトルがワシントン州にあることというか、ワシントン州が西海岸にあることを知らなかった。だから、首都のワシントンDCとDCをつけて区別していることを。そして、ワシントン大学がシアトルにあることの謎も解けた。でも、東海岸と西海岸で時差が3時間もある。シアトルで朝ご飯を食べ終えたころ、ワシントンの人たちは昼ごはんの店を探している。そんなわけだから、こんかいはずっと時差ぼけから開放されなかった。

ワシントン大学の東南アジア研究センターの人たちが、東南アジアの生活と布を紹介するイベントを企画した。最初は、地元に暮らすベトナムやインドネシア、ビルマの人たちが、歌や踊りを披露するイベントがシティーホールで催され、そこでは布も展示され、販売もされていた。地元に暮らすアジア人の人たちも集まり盛況であった。そして、大学のなかにあるアートギャラリーで東南アジアの布をめぐる講演会が催された。わたしも、その中の報告者の一人で、カンボジアの内戦の傷跡と伝統織物について話をした。マサチューセツのTSAのときもそうで会ったが、報告者のほとんどは学芸員や研究者、だからわたしのような現場で伝統の布の復興と活性化に取り組んでいる、そんな報告は新鮮なようで、わたしのなれない英語の報告でも好評だった。報告を終えると、多くの人から質問や励ましを受けた。こんかいは、終えてから話しかけてきた年配の夫婦の人から寄付をしたいのだがどうすればいいか、とうれしい質問を受けたりした。

更新日時 : 2002年10月 7日 16:33

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