2003年3月アーカイブ

藤黄

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クメール語でブロフーと呼ぶ、黄色染料となる木の樹皮。藤黄とも書いて、シオウと読む。中国語である、中国では古くから黄色絵の具として珍重されてきた。日本では、塗りの春慶塗りの透明感はこの色から来ている。日本にも中国を経由して送られていたようだ。じつはこの木の英語名はガンボジ、かぼちゃと同じようにカンボジアから来ている。
インドシナの中でもカンボジアはその産地であった。しかし、現在では目にすることは少なくなった。わたしも、10年ほど前にその自生地を見たくて、地雷原でもあったタイ-カンボジアの国境の山の中の獣道をかきわけ兵隊と一緒に訪ねたことがある。その木を見たくて、地雷原まで来たわたしを兵隊は不思議そうな顔をしてみていた、気がする。遠くにまだ大砲の音が聞こえる頃だった。
赤のラックと共にカンボジアを代表する染材である。研究所にはときどき、仲買人のおばさんが届けて来てくれる。最近も200キロもの樹皮が届けられた。でも、わたしたち研究所ではその木を、もう一度苗木から育て始めた。自然の恵みだと言って貰ってくるだけでは、いつかは途絶えるもの、再生産するために、それは自然の循環。
沖縄の黄色を染める有名な福木、それとおなじオトギリソウ科に属する、マンゴースチンと同じ仲間でもある。沖縄ではこの福木は樹齢が若い物は使わないという。古い木ほど色が綺麗だとも。それをを聞いて思ったことは、沖縄の人たちは、そういう風にこの美しい黄色を出す木をいたわっているのだと。自然を染める、それはそんな自然へのいたわりの気持ちがないと出来ないもの。
写真の花はブロフーのもの、この花を見つけて初めてこの木が英語名のガンボジであることを確認できた、そんな記念の花である。それは、使い始めて10年は経っていた。素敵なこのブロフーで染めた黄色は、研究所でも最近人気の色、自然な鮮やかな落ち着きのある黄色。

養蚕の村

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久しぶりに、プノムスロックの村を訪ねた。97年2月以来。そのときの写真を持っていった、みんな6年ぶりの写真の中に写っている自分を見つけて嬉しそうだった。
この村は、カンボジアの西部、もとはバッタンバン県に位置していたが、93年の国連暫定政権移行は、新しいバンティミエンチェ県になった所にある。シエムリアップから西に約80キロ、ポルポト派の支配地域であったから、最後の最後まで戦闘が続いた地域のひとつでもある。
わたしは、95年の織物の現状調査のとき訪ねたいと思ったが、戦闘が激しく訪ねることは出来なかった、唯一の所である。一時安定、96年後半から97年前半、そのとき国連のUNDPという機関から依頼されて、自然染色の講習会を開くために訪ねることが出来た。そのあと、また戦場になり、98年後半まで安定していなかった。
この地域は、村の名前が織物の柄に残るほどに、古くから織物が盛んな所であった。そして、伝統的な村の中での養蚕が黄色い繭によって続けられてきた地域でもある。研究所では現在この村でできた生糸を定期的に買っている。
今回久しぶりに訪ねた。そんな村を巡るNGOの絡んだプロジェクトがいくつかあることは聞いていた。でもそのほとんどは、2年か3年で消えていく。村の伝統を外部の人間の思惑で掻き回して去っていく、そんな残骸のようなものを村の中に幾つか見つけた。でも村人は、自分たちの生活のペースで伝統を活かしていく、そんなことを久しぶりに訪ねた村で考えさせられた。

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自転車通勤

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研究所には、毎日200台を越える自転車がやってくる。総勢300人、多くは毎日村から自転車で通ってくる。シエムリアップの町から通ってくるよりも、周辺の村からのほうが圧倒的に多い。遠い研修生で15キロ以上、そんな離れた村からやってくる研修生も30人を超える。朝、研究所は8時始業だから、2時間はかかるから、まだ薄暗い6時前には家を出てくる。夕方は5時終業だから、家に帰れば7時になる、もう暗い時間である。だからか、夕方の5時、仕事を終えてみんな帰りを急ぐ。5時の自転車置き場は喧騒の中、でも10分もすればそんな200台ほどの自転車はいなくなる。
雨季の雨が降るときも、メゲズにやってくる、傘を差さないから、それにスコールだったら傘も関係ないから、びしょぬれになる。それでもメゲズに。頭が下がる。
流行の自転車は、タイ製の新車。60ドル。日本からの中古もあるが、値段も安いのに(40ドル)でも、みんなの憧れはタイ製の高い新車。でも、そんな新車に乗っているのは半分にも満たない。研究所に来ることになっても、自分の専用自転車を持っていない研修生も多い。一台の自転車は家の宝、彼女が独占することは出来ない。そんな研修生のために研究所は自転車ローンを提供している、もちろん利息無し。毎月の給料から5ドルづつとか引いてゆく。それでも、そんなあたらしい自転車に乗れる女性は嬉しそう。

ハネムーンシーズン

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カンボジアは乾季の真っ盛り、この時期は結婚式のシーズンでもある。町や村を歩くと、あちらこちらで結婚式に出くわす。1月の米の収穫を終えて農閑期でもある。豊穣のひと時、そんな村人の季節の催しなのだろうか。ニャムカーとクメール語で呼ぶ披露宴。訳せば、食事会とでもいえる、丸いテーブルに8人づつ。大きな結婚式だと、そんなテーブルが100組も並ぶ。地元の名士の子どもであれば、その数もすごいもの。でも、研究所の研修生の場合はささやかなもの、10テーブルぐらいが標準。身内や、友達に祝福されて幸せそう。
おもしろいのは、ご祝儀は帰りぎわに渡す。これは食事を食べてから、その味しだいで包む金額も変えられるから、合理的かもしれない。シエムリアップの研究所の研修生の結婚式などで、他の研修生が呼ばれて包む金額は、平均5ドル。わたしは、多いか少ないか微妙な所だが、一律20ドルと決めている。若い研修生が多いせいか、このところ研修生の結婚式が数組。みんなは、そのご祝儀だけでも馬鹿にならないから、頭が痛いとぼやいている。
研修生のなかには、研究所にきたころには独身。そして結婚、そしていまはお母さん。そんな研修生が何人かこどもを連れて、研修所に通って来ている。まだ結婚していない、若い研修生にとっては、自分の人生のモデル?が横に座って、子どもをあやしている、それも研究所のひとつの役割なのかな、と思っている。

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1番目:耕運機の試運転
2番目:芽が出てきた野菜畑
3番目:休み時間はバレーボール
4番目:食事用の小屋もできました

 研究所の活動は、いつも予算と力量のジグソーパズル。そして、走りながら考える姿勢には変わりがない。

 余裕があってから何かをするというのではない。必要と思えたときにそれは動き始めていく。いわば、川の流れのようなもの。メコンの支流と同様に、ときには洪水のようになり、ときには旱魃状態にもなる。それでも、時の流れのなかでなんとかバランスがとられていく。「伝統の森」計画も、そんな自然の流れのなかにあると思っている。それをすることが必要である、そのために必要なリスクを背負うことに異存はない。土地を取得するための費用も、基本は自力で、そして慈悲の心がそれを補ってくれた。

 織物の村々をまわるうちに、わたしたちは偶然このシェムリアップに流れ着いたのかもしれないし、それは必然だったのかもしれない。ともあれ、この地でこの数百年のアンコール王朝を生み出してきたカンボジアの自然と人に触れることができ、人と自然のあるべき姿を学んだように思える。これからわたしたちは、「伝統の森」と呼ぶ計画を進めていく。ここで、自然によって生かされる人と、人によって活かされる自然との、営みのかたちを生み出せたらと願っている。

 それは、人類がこれまでに身につけた何百年何千年の経験を、わたしたちがどこまで受け継ぐことができるのか。それを、今後のわたしたちの課題としていきたい。それは新しいジグソーパズルなのである。

 予定地が決まったことで、それまであたためてきたいくつもの課題や計画が、急に現実味を帯びてきた。

 カンボジアの豊かな自然が、豊かな伝統の織物を生み出した。それは、自然からの素材を使った、人々の営みとしての染めと織り。これからは「伝統の森」の現場で、その復元と活性化に取り組んでゆきたい。

 とりあえず、荒地の開墾を進めつつ、並行して現在生えている潅木の調査を行なっている。森の再生に必要な木々を残しながら植林をすすめ、生きた森を再生していく。熱帯モンスーンという風土のなかで、そこにある水や土、季節のうつろいを含めた自然環境を学び活かしながら、植物や木々を育てていく。

 自然を原材料の供給源としてただ消費するのではなく、その循環と再生を考える。それは、それを生み出す自然への思いやりの気持ちではないだろうか。その気持ちがなければ、その素材を生かすこともできない。わたしは、自然染色をしながら、そしてカンボジアの伝統織物を再現しながら「自然への思いやり」を学んできたように思う。

 伝統とは、経験と知恵。それは、何百年何千年にわたって受け継がれてきた、人々の営みである。わたしたちはそこから多くのことを学べるし、学ばなくてはならない。たとえば、単一商品作物のための大プランテーションに象徴される生産性。そこから生まれたものは、大量に作られるものであり、そして同時に大量に消費されるものであった。そして、これまでの時代は人々は自然環境をも浪費してきたのではないだろうか。プラスチックに代表されるような文化への反省が、21世紀に入り花開き始めているようだ。自然をいたわる、それは、そこに暮らす人々をもいたわる文化なのかもしれない。

神の恵み

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 この間、アイデアを整理しつつも、その一方では伝統の森計画を実施するにふさわしい土地を探し始めた。しかし、観光バブルに沸くシェムリアップでは、手が出る値段の土地はない。周辺の地域を含めて適当な所をと、約一年あちらこちらと見て歩いてきた。しかし、場所はよくても値段が一桁高くて、というケースがほとんど。そんなわけで土地探しもしばらく諦めかけていた頃、研究所のひとりの研修生から土地を買って欲しいという話が持ち込まれた。彼女はつい最近、ご主人を亡くし、研修をしばらく休んでいて復帰してきたばかりだった。値段の高い土地ばかり紹介されていたから、土地を見る前に値段を聞いた。そして驚いた。そして、現場を見て驚き、もう一度恐る恐る値段を聞き直した。即決。地元の人から見れば、それでも少し高い値段なのかもしれないが、これまでそんな値段は誰も提示してくれなかった。その4、5倍の値段ばかりであったから。わたしは、これも神の恵み、だと思った。

 2002年の7月、伝統の森計画はやっとそ計画の地を確定することができた。アンコールの遺跡群は、その後背にプノムクーレンという山並みを持つ。それは、アンコール王朝の始まりの地でもある。その山並みから流れ出るシェムリアップ川。その川の流れがバンティスレイ寺院を過ぎてアンコールトムに至る、その中間地点に位置する。シェムリアップの町からは、約22キロ北へ向かったところ。もとは森であったと思われるが、現在では潅木が茂るだけの荒地である。が、シェムリアップ川に近く、すぐ脇には小川もある。高台だが水の心配はないところに思える。約5ヘクタール(5万平方メートル)の土地に、桑畑と綿花畑、そしてラックカイガラムシのための森、そして自然染色のための木々や植物を植え、ゆくゆくはそばに小さな工芸のための集落を併設しようと思う。

 伝統の森再生計画のことが、メールマガジンやホームページを通じて知られていくうちに、わたしがはじめに思い描いていた「森の再生」のイメージとは違った反応が、日本にあることに気がついた。そのひとつは、里山運動との比較であった。そして「伝統」という日本語の言葉にあるイメージであった。わたし自身、日本での里山運動というものを直接には知らず、伝統の森計画を構想してきた。また社会学者に教えられて、インターネットで関連するいくつかページを開いてみたりした。そのうえで、研究所が取り組もうとしている伝統の森計画とは共通している部分もあるが、どこか少し違うことに気がついた。

 西洋的な、人間の居住空間とは別の空間としての「森」という認識。あるいは、これまで日本などで行なわれてきた「開発の対象としての森」の裏返しとしての「保護する対象としての森」という認識。「伝統の森」が意味する森は、こうした認識によってアプローチできる「対象」とは、一線を画しているように思う。

 そして、もっともはっきりしていることは、わたしたちは生活の場をそこに作り出そうとしている、ということだ。研究所が現在進めている伝統織物の復元と活性化の活動は、研究所の大所帯がそれで食えることを同時に意味している。そのリアリティが大切であり、それを実現することが目標となっている。現在の研究所のレベルでは、過去にあったカンボジアの絣の世界と同等の布を完全に復元するまでには至っていない。かつてカンボジアにあったすばらしい色と糸、それを再現するために「伝統の森」計画はある。

 これまで日本で使われてきた自然保護という言葉のなかにどれほどの意味があるのかわからないが、いま研究所が取り組もうとしていることは、それよりももっと積極的な意味で「生きた森」の再生である。これは、人が自然と共生するためのひとつの未来モデルの構築でもある。

 また、日本語の「伝統」という言葉の使われ方に、過去の出来事を保存するというイメージがついてまわっていることは否めない。だが、研究所が現在進めている、そして取り組もうとしていることは、保存のためではない。今、そして未来に向けた「伝統」の新たな創造なのである。伝統とは、固定化されたものではなく、時代と共に常に変化して生き続けてきたもののはず。そうやって生き続けてきたものが、結果として伝統と呼ばれたものではないだろうか。

 わたしにとっての「伝統」とは抽象的な概念ではなく、具体的な人々の積み重ねられてきた経験であり知恵であり、そしてそれを支える精神(=心)をさす。その心を現在に活かすこと。そして、「森」はわたしたちを取り囲む自然環境といえる。この「伝統の森」再生計画は流行の言葉で言えば、持続可能な循環型社会=村の構築をめざしているともいえる。

 わたしは、NGO専門家でもなく、ましてや社会学者でもない。織物が織られている現場のなかですごしながら、自然の草木を相手に染色にあけくれ、織物の素材の宝庫である自然と付き合い、村人の伝統の知恵や経験から学んできた。日本でタイでそしてカンボジアで、生活者としてそこに生きる人々との出会いのなかで、わたしは「伝統の森」計画を思いつくに至ったのである。そのことを大切にしたいと思っている。

 飛行機のなかでのひらめきから、実際に計画が動き始めるまでには、約一年半の時間が必要だった。じっくり熟成という感じで寝かせていたわけではない。ひらめきはひらめき。それを具体化するために、まず資金=予算がなくてはならない。いつも自転車操業の、赤字運営が自慢の研究所にはそんな余裕はなかった。故に、そのめどを立てていかなくてはならない。

 そして、自分でもアイデアを深め整理する必要があった。親しい友人などに意見を聞きながらすり合わせをしてゆく、そのための時間でもあった。ひとつひとつの課題についての解決のしかた、優先順位、その担い手、そして先立つお金のこと……、そうした点についての意見交換のなかで出てきたものに、計画の名称についての指摘があった。

 じつは、いちばんはじめにわたしの頭に浮かんだ言葉は「鎮守の森」だった。わたしにとって、それはこどもの頃の田舎の村にあった鎮守の森。しかし、友人の社会学者氏から指摘を受けた。この言葉は宗教的な意味を持つことになるかもしれない、と。鎮守という言葉には、神道的な文脈がついてまわる。しかるにカンボジアは仏教国である。些細な点ではあるが、後々それが問題になりはしないか。わたしはそんな宗教論議をするためにこの計画を進めようとしているのではないから、とりあえず単純に、その意見を受け入れることにした。わたしのなかでは、シェムリアップの精神世界ともいうべきものが「鎮守の森」という言葉と、深いところで通じているように感じてはいた。だが、これも新たな歴史論争を経なければならないだろうから、一歩引くことにした。

 2001年11月、恒例になった日本での展示報告会の会場に、「シェムリアップ・伝統の森再生計画」という趣意書ともいえる一枚のコピーを置いた。これが、伝統の森についてのお披露目であった。そして、研究所のホームページ上にも紹介するようにした。

 このように、カンボジアの村のなかに、古くから自然環境との循環を活かした暮らしがあったことが見えてきた。見えてきたという言い方は本当は正確ではない。なぜならアジアの他の地域を見ても、そんな人と自然との伝統的な生活のかけらさえも消え去った地域が圧倒的に多いことを思えば、その営みが村のなかで伝承され、それを受け継いできた人々がここにいるということはきわめて重要である。

 その一方で、20数年の内戦下の混乱が人々の生活を変え、あわせて伝統的な自然環境も破壊されていた。そんなことも村をまわりながら見えてきた。何代にもわたってラックカイガラムシを育てていた樹齢百年になるような木を、戦争で失った家を建て直すために切り、生活に必要なお金を得るために売り払ってしまった。こうして、村からラックは消えていった。綿の木や藍は、織物をしていたおばあが亡くなったあと、誰も手をつけずにいたため野生化してしまっていた。もともとそれほど豊かでなかった村のそばにあった小さな森も、すでにめぼしい大きな木は切られてしまい、人々が市場に売る薪を求めて小さな木まで切りつくしたため、見るも無残な姿をさらしていた。同じ村に何年か続けて通っているうちに、遠くに見えるそんな山の変化が見て取れた。これを、ただ単純に人口の増加による村人の現金収入のための経済活動の拡大がもたらすアンバランスと言い切ることはできない。

 もともと村人の生活は、自給にもとづく複合的な小さな経済活動によって成り立っていた。これは重要なことである、熱帯モンスーンの自然の中で米も作るが芋も、そしてココナッツも。時には布やラックも売れていた。

 量は少ないだろうが、それで得られるものは大きかったはず。以前は物々交換であっただろうし、貨幣に交換されていっても、村人の必要な外部からの物と交換することができていたはずである。しかし、そんな村の伝統的な経済活動の複合的バランスはもはや消えつつあった。それは、それを支えていた伝統の中で培われてきた経験や知恵をも消してしまい始めていた。それは、心の変化ともいえる。
 わたしたちの村人との接点は、村の中で織り継がれてきた伝統の織物である。そしてその伝統をひとつひとつ学ぶなかで理解し得たのは、その織物もまた村の自然環境との循環システムの一部であるということだった。だが、それはすでに瀕死の状態にあった。伝統の織物の再生のためには、その自然環境の再生を抜きに成立し得ないことが次第に明らかになってきた。

 だが、既存の村でそれを実施することは容易なことではない。それぞれの村人の経済活動や家族の状態、そして土地の所有などに複雑に絡む。それを、外部のわたしたちが伝統の再生だといって村人に声をかけてみても、簡単に動けるものではない。仮にそのことで生まれる経済効果が明らかであったとしても。そして、村の村人同士の関係、すなわちコミュニュティのあり方とも関係してゆく。瀕死の自然環境を再生するために必要な時間とエネルギーと費用を考えると、既存のコミュニュティにおいて実施することはとうてい無理に思えた。それよりは、新たな場所でその再生を手がけていったほうが、具体的かつ可能性があるようだった。そんなことを漠然と考えていた。

 そうした思いが、森の再生と併設する村の再生計画へと発展した。すなわち「伝統の森計画」であった。

 この「伝統の森」再生計画のきっかけともいえるアイデアは、実を言うと2000年の12月に、シェムリアップからバンコックに向かう飛行機の中で、突如ひらめいた。そのとき持ち合わせていたノートに、その思い付きをメモした。それが最初。それまで、あれこれ考え、あたためていた伝統織物の再生のためのさまざまな課題が、「森の再生」という事業のなかで連鎖して実現できることが、そのとき一瞬にして見渡せるように感じたのだった。

 これまで各地で試みてきた養蚕を、シェムリアップで実施したいと思っていた。ラックカイガラムシの育成と、それに必要な木々の植樹。また、カンボジアで途絶えてしまった藍染めを再開するために必要な藍畑の復活。手紡ぎの木綿を織るための綿花の栽培。そのほか、伝統的に使われてきた自然染色の素材となる植物の栽培とその見本園の造成。……そういったひとつひとつの課題が、森の再生というキーワードが媒介となってすべて繋がっていくことに気づいた。それまでの何年かの間に、あれこれ溜まっていた思いのすべてが咀嚼され、一気にノドもとを通り過ぎていくようだった。
 わたしが伝統織物を再生するために、解かねばならない課題を意識するきっかけは、95年のユネスコの織物調査で村々をまわったときのこと。カンボジアのあちこちの村々を訪ねるうちに気付かされた、村の中で伝統的に維持されてきた自給と循環のシステムの存在である。

 かつて、村には必要な布を織るための生糸を生む蚕を育てるための桑の木があり、木綿を紡ぐ綿花の栽培も、そして糸を染めるために必要なラックの育つ木や藍もあった。それ以外にも、染色に使える植物を見出すことができた。それらは、村を構成する自然の一部として、そこにあった。

 そして、思い返してみれば、わたしはそれと同じようなことを、80年代にタイに暮らすクメール系の人たちの村で経験していた。それは、染色に使える自然染料となる植物の調査を村で実施していたときのこと。集落のなかから田へと視線を移したとき、生活に必要な植物や木々がそこここに点在していることに気づいた。染めの材料だけではなかった。家を建てるための、牛車を作るための木、あるいは魚を取る網の耐水性を補強するための実のなる木。そして、家の柱に必要な木を伐採するときには、その木の苗木を植える。――そんなことが村の生活の一部として行なわれていた。数え上げればきりがないほどに、そうした経験は語り継がれ、時間をかけて培われてきた「伝統の知恵」であった。

伝統の再生と活性化

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 1994年に何度かタケオの村々を訪ねたことがきっかけで村の熟練の織り手であるおばあたちと知り合い、そのすばらしい仕事に驚かされながら、わたしのカンボジアでの活動は始まった。その端緒となったのは、ユネスコからの委託による、95年1月に始まったカンボジアの絹織物に関する現状調査であった。その後、日本の友人たちに支えられながら、カンポット県のタコー村での伝統養蚕の再開プロジェクトを単独で開始。

 そして96年1月からは、カンボジア政府から正式にNPO認可を受けた「クメール伝統織物研究所」として、プノンペンを基点にかつて伝統織物の産地であった村をまわり、経験と技術を持った織り手を探しながら、伝統を掘り起こす作業を行なった。これらの活動を中心にした99年までの5年間は、研究所の活動の第1期と位置づけられる。

 研究所の拠点をシェムリアップに移した2000年からは、織物の伝統の活性化を願い、若い世代への技術の継承を重視した展開に移行。結果として、研修生となった貧しい家庭環境に暮らす女性たちの自立を支援することになり、これは研究所の第2期の活動において大きな比重を占めている。

  1、桑の木基金の創設と養蚕プロジェクトのシェムリアップでの展開
  2、自然素材による染色技術の伝統からの発掘
  3、伝統的絹織物の活性化のために、新たな製品の製作
  4、伝統的織物技術の若い世代への伝承
  5、伝統的織物にかんする資料の発行
  6、研究所の公開と展示設備の充実

 以上は、2000年度に立てた研究所の事業計画の概要である。この3年の間に、これらの基本的な部分を達成するか、もしくはその目鼻をつけるところにまで到達できた。

 そして2003年からは、これまでの活動を継続しつつ、伝統を支える自然環境の再生を軸に、新たな地平ともいえる「伝統の再生と活性化」に取り組もうと考えている。研究所にとっては、第3期の活動の始まりである。その基幹となるのが「伝統の森」再生計画である。

新たな地平に向けて

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2003年からは、これまでの活動を継続しつつ、伝統を支える自然環境の再生を軸に、新たな地平ともいえる「伝統の再生と活性化」に取り組もうと考えている。研究所にとっては、第3期の活動の始まりである。その基幹となるのが「伝統の森」再生計画である。

1. 伝統の再生と活性化 2. 「森」が支える伝統の知恵 3. 村の生活と自然の循環システム 4. 「鎮守の森」から「伝統の森」へ 5. 「伝統」と「森」の意味するもの 6. 神の恵み 7. 素材を生かす思いやり

2003年3月3日
シェムリアップにて
クメール伝統織物研究所 森本喜久男

お絵かき組

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研究所のいくつかのグループの中で、わたしから見れば一番幸せな組は彼女たちではないかと思うお絵描き組、またはペイント組。じつは、わたしも10代のころ油絵描きを目指していたころがあった、そのころ食事代を削って絵の具を買っていた記憶があるから、なおさらである。朝8時から夕方5時まで、絵を描くことが仕事。主に植物本の模写をしている。時には外で写生もする。そして20代のはじめ京都で手描き友禅の親方の下で修行していたころ、そこに在った江戸時代の木版の花鳥画の原本を写生させてもらっていたこともある。それが自分の絵を描くということのなかで、どれほど役に立っていったか、いまも思う。その分、彼女たちにそんな環境を提供できたらと思っている。しかし、わたしは、当時親方からたばこ銭程度しか貰えなかった。でも研究所の絵描き組の彼女たちは他の研修生と同じ給料をもらっている。いいですよね。
現在は10人。もう描き始めて1年ほどになる。最初は子どもが描く落書きのようだった、がいまではなかなか素敵な絵を描けるようになってきた。最近、研究所を訪ねてこられたかたが、ポストカードに花の絵を描いて売りませんか、と声をかけていただけるほどに、彼女たちの腕は上達してきた。
シエムリアップの町には、絵の具が売っていない筆も。ここには、まだ絵を描く環境がない。タイや日本に行ったときに買ってくる。最近では、画材を寄付していただけることもある、嬉しいことだ。描き始めたころは、黄色と青の絵の具を混ぜて緑になることも知らなかった。そんな彼女たちが、いまでは淡い中間色も使いこなせるようになってきた。ゆくゆくかな、このなかからシエムリアップを代表するような女流画家が育っていくようになってくれれば嬉しい。

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