2003年4月アーカイブ

無念の雨

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研究所には、15歳から上は70歳までの研修生がいる。その、年長の70歳の新人研修生のおばあちゃんが亡くなった。心臓が悪かったようで、少し、最近からだの調子が良くないと、聞いていた。亡くなった日も、町の薬局で薬を買って飲んだようで、その薬が強かったのか、心臓発作が原因で亡くなったらしい。
研究所には最近、50代から60代の女性が新人の研修生で数人いる。彼女たちは身寄りがなく、生活に困っていることもあって、若い研修生に混じって生糸の仕事をしてもらっている。そんな年配組みの一人だった。身寄りは、13歳の孫娘がいるだけで、その子に毎日、自転車に乗せてもらって研究所に通ってきていた。研究所に来るまでは、自分でお菓子を作って、お皿を頭に載せて売リ歩いていた。研究所にも、最初はそんなお菓子売りのおばあちゃんの一人だった。そして気がつけば、研修生に混じって仕事をするようになっていた。初めの頃は、わたしに見られると恥ずかしそうに、そんなお菓子を前に並べて他の研修生に売りながら仕事をしていた。
亡くなったと知らせを聞いて、朝早く家に駆けつけた。ほんとうに小さな、小屋のような家に孫娘と住んでいた。孫娘の両親はやはり病気で亡くなったという。研修所のスタッフとお葬式に出かけた、ほんとうに質素なお葬式だった。遠くから、そのおばあちゃんの、妹だという年配の女性が身内でいただけ。研究所のみんなは、お葬式の費用のために袋を回して少しずつのお金を集めていた。そして研究所のしっかり者の女性が、お葬式を仕切っていた。そして、彼女がその孫娘も引き取るという。
そのお葬式を終えて、研究所に戻ってきたら、ものすごいスコールがやってきた。この乾季では珍しいほどの雨だった。雨季の始まりの、最初の雨のような。1時間ほど降り続いたその雨を見ながら、ふと、亡くなった彼女の無念の雨、そんな風に思えた。研究所には、わずか3ヶ月ほどしかいなかったのではないだろうか、でも、見ていて楽しそうだった、そのせいか死に顔もきれいなものだった。でも、そんな薬で急に死ぬことになって、残念だったのではないだろうかと思えた。そして、その雨がやんだ時研究所に訪問者が。おばあちゃんが、呼んでくれたような、そんな気がした。

カンボジアのお正月

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今日から3日間、カンボジアはお正月。今日のお昼の12時に天からあたらしい年のテワダー(天女)が降りてくる、と人々は信じている。そのために各家の入り口近くには、それを待ち受ける飾り物が並べられる。中心は、そのテワダーが降りてくるところ、それはバナナの幹で作られた飾り物、お線香と蝋燭、そして花が飾られている。ちょうど灯篭流しのそれのよう。そして、その周りには、花や果物が供えられる。
研究所に住む、おばあたちが昨日あたりから、その準備で忙しそう、そして、今朝は市場にそれらの飾り物を買いに行く。市場では、しっかりといつもなら一房、500リエルのバナナが今日は倍の値段がしている。しっかり便乗値上げ。それが分っていても事前には買わない。その日が来るまで待つのである。
そして、お正月の飾りでもうひとつ、特徴的なのは星の形をしてカラフルにセロハンが張られた飾り物、大きいものだと1メートルを超える。普通の家庭では、40センチほどのものが主流。これに、クリスマスの時のように電飾の飾りをつけているから、夜はまったくクリスマス気分。
村では、丁度日本の昔の歌垣のような遊びも伝わっている。男性と女性に分かれて、するいくつかのお正月の遊び(ゲーム)もある。そんなのんびりとしたお正月、そして明日はみんなでお寺に行く。

黄色い紬糸

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黄色い生糸。繭から引き立ての糸は、黄金色といってもおかしくないほどに本当にきれいな黄色をしている。熱帯種の蚕蛾。食べている葉は日本と同じ桑の木。最近では、日本や中国の白い生糸の原種だといわれている。わたしたちも、桑の木の調査を実施、それをうらずけるものを発見している。日本や中国の生糸が機械で引き織るために改良されてきたのに比べ、自然のままの性質を保っている、野生ともいえるこの黄色い生糸はしなやかで丈夫で美しい。おなじシルクといっても、違う趣を持っている。水で洗えば洗うほど、その柔らかな風合いは美しい。
日本でも、昔、この熱帯の黄色い生糸をカンボウジュと呼んでいたことがある。それは、カンボジアからきたことをあらわしている。生糸を使った三味線の糸は黄色である、それはいまの白い生糸であれば、わざわざ染めてやる、しかし昔はこの黄色い生糸がそのまま使われていた、その名残りではないだろうか。1970年の戦乱が始まるまでのカンボジアは養蚕の盛んな国であった。ラオスの王宮では昔、いい生糸の代名詞として、クメールシルクと呼ばれていたという。最近の日本では、タイシルクが有名になってきた、でもタイの中で養蚕のもともと盛んだった所はクメールの人たちが多く暮らす、スリンやブリラム県あたりである。
研究所で、研修生の最初の仕事は、この黄色い生糸をきれいにしてやるところから始まる。手で引かれた生糸は、節くれもある、それをはずす作業が主なもの。その過程で、くず糸が出る。それをまた一本一本つないでやる。ちょうど、昔の日本の養蚕農家がいい糸は業者に納めて、残ったくず繭や糸を活かして自家用に作った生糸、それが紬糸。でも、いまの日本ではそんな手間のかかることは出来なくなってしまった。でも研究所では、研修生が生糸になれるための最初の仕事がそんなくず糸を紬ぐことから始まる。根気のいる仕事、でもこれを自然に出来るようになることで、手が生糸を覚えてゆく。織手としての最初の仕事でもある。

根負け

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300人になって、もう打ち止めのはずだった、でも、またあたらしい研修生を受け入れることになってしまった。彼女は44才。旦那が新しい奥さんをもらい別れてしまって、こどもを抱えて生活できない、と。眼の前で、ぽろぽろと泣かれてしまった。下は2歳から上は15歳までの6人のこどもを抱えて、と言いながら。困ったもので、研究所はもう人はいっぱいで、また数ヶ月してから来てくれといったが、動く気配がない。根負けしてしまった、感じで。
そうして、次の日。わたしが、新しい研修生を取ったのを聞きつけたほかの研修生が、何人か自分の村から、研修生希望者をまた連れてきた。そのなかには、何人かお父さんのいない子もいる、でもいまは、とりあえず面接だけはする。でも、もちろん採れないのだけれども。貧しい、本当に生活に困っている女性を採るようにしてきたから、結果的に研究所には両親のいない子やお父さんがいない、そんな人が増えてきた。
研究所では研修生に、町の食堂で働くのと同じだけの給料を支払っている。まず彼女たちが食えることが前提だから、そして、研究所の通ってこれる。そして、技術を身につけて、自立できるように。それが研究所の現在の活動の基本である。でもほんとうに研究所の研修生候補は、数百人ではなく、数千人規模でいるのだろうか、このシエムリアップでは。
イラクの戦争が始まって、あきらかに旅行者の数が減り、研究所にこられる方の数も目に見えて減って来ている。布の売り上げで維持している、研究所にとって深刻である。数百人の研修生を抱えているのだから。そんな、ことを思うと、本当は心を鬼にして、なのだが。

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伝統の森の現場に、男衆が住み始めて早いものでもう2ヶ月が過ぎた。21人の力は、やはりすごい。開墾そして整地と順調に進み、研究所で準備していた桑の苗木1500本はすでに植えられ、元気に育ち始めている。そして、あらたに2000本の桑の苗木も準備された。
シエムリアップの町から22キロ離れているから、携帯電話は使えないので無線機を、そのための小さな小屋も出来た、木の根元にもとは大きな蟻塚が在った所に建てられた小さな小屋だから、木陰の下で涼しく過ごしやすい場所。いまの所、伝統の森の中の一等席かな。
トイレもできた、最初は村での生活と一緒で、野原にすればいいといっていたのが、やはりトイレという話になった。そして、食事用の食堂?もできた。井戸は新潟県の有志の方から寄付をいただき、出来上がった。生活用が一本、そして灌漑用が一本、活躍している。そのおかげで、食用の野菜畑も元気に育っている。豆類、とうもろこし、きゅうり類など、そして葉類。きゅうりはたくさんできたので、売るほどあるという。すごい、今日は森の現場からきゅうりのお土産をもらってしまった。

お披露目

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今日、4月3日はカンボジアでは文化の日らしい。シエムリアップの国際赤十字事務所の庭で、文化省主催のそんな催しがあった。シエムリアップの最近流行のレストランでのアプサラダンスを踊るグループも勢揃い。それ以外に影絵芝居のグループなどシエムリアップで伝統文化に絡んだ活動をするグループが集まってきた。なかには珍しい伝統芸能を踊るグループなども参加。研究所は伝統織物ということで、招待された。研究所からは約20人。おばあたちを中心に、織機を持ち込み染やかすり括りの実演などを披露した。
じつは、研究所がこんな公式行事に呼ばれることは、シエムリアップではこれまでなかったこと。もうひつ伝統織物の研修などをする大きな元NGO団体があったから、これまではそこが引き受けてきた。だがそこが、最近民間会社に移管したという話が伝わり、流れが変わってきた。そして、今回のご招待、嬉しい話だ。シエムリアップでの公式の場での研究所の初めての今日はお披露目になった。これは、研究所のこれからの活動にとって、記念すべき日となるように思えた。取材に来ていた地元のテレビ局が近いうちに取材に来たいとも言ってくれた。テレビ局の人とその話をしていた、研究所のマネジャーのロタ君は、地元の人に活動が知られていくのはいい、と喜んで話してくれた。

チャムからの招待

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研究所の近くにあるチャムの人たちの新しい学校の開校式があった。研究所には約20人ほどのチャム人の研修生が来ている。その関係もあるのか、招待状をもらってしまった。
研究所にいる何人かの研修生も朝から、綺麗なチャム風?の衣装に身を包みおしゃれをしている。開所式には1000人以上の人が集まっていた。なかには遠く、バッタンバンやコンポンチャム、カンダールのチャムの村からはるばる駆けつけているようで、久しぶりに出会う親戚や友達に嬉しそうだった。開校式では気がつけば壇上に上がらされていた。壇上の後ろで、式の進行を見守りながら、一瞬自分がどこにいるのか分らなくなった。男性のほとんどはムスリム独特の帽子に少し大きめの上着を羽織っていたり、マレイシア風な帽子をかぶる人など、女性の中には黒尽くめのイスラムの民族衣装に身を包んでいる人たちもいる。
カンボジアの絣の世界を知るにつけ、チャムの人たちのその美意識に発する模様の美しさに魅了されてきた。そして、クメールの美意識、その二つの美意識がぶつかり、融合した所にカンボジアの絣のすばらしい世界はある。そんな、チャムの女性の独特の衣装の着回しを見ながらあらためて、彼女たちの美意識の世界を垣間見させてもらった、そんな素敵な開校式だった。

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研究所には毎日いろんな物売りの人がやってくる。朝はおかゆ屋さんからパン屋さん。3時のおやつのような物まで、そしてアイスクリーム屋さんまで、入れ替わり立ち代り。みんな天秤棒を担いでやってくる。研究所はほとんどが女性、そして、約300人近くがいるわけだから、研究所へ来るだけで、担いできたものを売り切ってしまうことも。
なかには、そんな物売りで頭の上にお盆を載せて果物なんかを売っていた女の子が、気がつけば研修生に、という例も。そして、最近の流行は研修生の中から、家で甘いお菓子を作って売り始めている人も出てきた。当然、そのために朝早くから起きて、お菓子作りに励み研究所にやってくる、一個100リエル(3円ぐらい)のお菓子から300リエルの果物まで、でも数が売れるから、売り上げは馬鹿にならない、研究所の給料よりもたくさん稼いでいたりする。なかには家出できた野菜を自転車に積んできて、お昼のおかず用に売っている女性も。そのせいか、朝の研究所は7時ごろからそんな物売りの人たちでにぎやかである。

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