2003年6月アーカイブ

コンピューター少女

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彼女はまだ17歳、研究所の研修生としては新人。研究所にやってきてまだ半年ぐらいである。彼女の現在の所属は会計。英語が少しできることもあって、コンピューター担当の予定で採用した。といっても、コンピューターなんか触ったことはない。研究所に来てから、パソコンを前にアルファベットを打つ練習を時間を見てはするようになった。パソコンのソフトは英語、だから英語の勉強もしながらのコンピューター少女の日々。研修生は仕事をしながら、技術を身につけてゆく。可能性があるか、もしくは向上心がある、そんな研修生をサポートすることが研究所の仕事でもある。彼女もそんな一人。
でも研究所の300人のスタッフのうちで、とりあえず英語のアルファベットを書ける女性は、10人と少し。そのほとんどは運良く中学校まで行けた、主にシエムリアップの町の子である。多くは周辺の農村部の比較的貧しい家庭からが多いから、小学校を行けたかどうかになる。そのうち50人ほどは、読み書きができず自分の名前もかけない。
研究所では、そんな研修生に給料を支払っている。まず彼女たちが食える、それを支えることが研究所の役割でもある。でもそうは言っても、研究所は充分な予算があって運営されているわけではない。特にこの間の数ヶ月の旅行者の激減のなかで、深刻な経済状態になっている。もともと、余裕がないから、毎月月末に決まった日に給料を全員に支払うことはできなかった。売り上げがあれば、早い者勝ちで、というと変だが、緊急度の高い人に優先的に支払いながらやってきた。だから、実質的には週給払いのようなかたちを取ってきた。なかには、家族の誰かが、事故や病気という場合は、全額か逆に前払いもするという形で支払ってきた。
その仕事は、わたしの仕事だった。普段は話すことが少ない研修生でも、そんな給料の支払いをしながら、研修生の個別の性格や事情も分るし、意味があった。しかし、このかん伝統の森も動き始めて、とてもそれだけに時間をとる余裕がなくなってきた。そんなとき、以前に会計担当だった女性が復職してきた。それを機会にその支払いの仕事を元会計の女性に任した。そしてアシスタントにコンピューター少女を。ところが、最近の彼女を見ていて生き生きしている。それは、そんな200人以上の研修生の日払いのような煩雑な仕事をテキパキとこなしている。カンボジアの女性は、どちらかといえば、シャイ。だから、他人に何かはっきりといえるという人は少ない。
でも彼女は違う、家族の誰が病気だ、明日のおかずを買うお金がない。といって毎日やってくる数十人の研修生を前に、片手にお金の束を握り締めながら、限られたお金の支払いをこなしてゆく。この間、売り上げがない日も多く今日は支払うお金が無いとシビアに冷たいこともいえてしまう、ときには修羅場。これも才能、生き甲斐を見つけたような気がする、と言えば失礼だろうか。彼女の母親も心臓病を病んでいる。だから彼女自身も、お金の苦労をいやというほどしてきているはず。

年に一度の大仕事

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年に一度の大仕事、なんていうとそれは少し大袈裟かな。でも、ほんとうに一年に一度ぐらいしか描いていないような気がする。そんな、久しぶりの仕事が、研究所の生成りの布に自然の染料でローケツ染めをすること。
もともと、手描友禅職人だったわけで、そのころは毎日キモノを描いていた。何人かの親方から、ローケツ染、素描、そして友禅と一通りのことをやっていた。そのなかでもメインはローケツ染。いま思えば、そのころのローケツの師匠の仕事は、今思えば神業。とても今のわたしなんか足元にも及ばない。木蝋、蜜蝋、パラフイン、カルナバと、それぞれの浸透度の違う蝋を使い分け、そしてその温度差による違いも組み合わせて、一筆描きで描かれていく花たち。素描の師匠は元は扇面の絵描さん、それでは食えなくて、といいながら男物の大島の羽織の裏に浮世絵や花鳥を素描で描いていた。そんな仕事をする職人さんが京都のキモノの世界を支えていた。そう思うと、今ではそれが受け継がれていないような気がしてとても残念な気がする。
キモノの柄では、やはり古典の琳派風の花鳥がすきだった。でもなかなかそういう仕事ばかりではなかった。最後には、何人かの弟子を抱えて親方をしていた。このキモノ不況といわれるなかで、そのころの弟子の一人の女性が今でも筆を離さないでがんばっている。昔かたぎの親方の下で修行して、職人として育ったそんな経験が今の仕事に生きていることは、間違いない。
京都でのキモノ作りのなかで学んだことのひとつは、いい物を作れば売れる。美にたいするそんな確信のようなもの。それは、いまの途絶えかけていたカンボジアの伝統の絣を再生する作業のなかで、生きているような気がする。妥協はなし、とりあえず採算は無視するしかない。冗談のような作業を繰り返しながら、でもいつかは昔のすばらしい絣の世界を再現することで、生かされるときが来る。それを支えてくれている要素のひとつは、そんな京都時代の経験なのかもしれない。
わたしの布との接点は、そんな染めてみたい気持ちを興させてくれる布。研究所でも何とかそんな布が織れるようになってきた。それは、研究所で一緒に仕事をしてくれている、おばあたちの成果でもある。そんな布を見ながら、年に一度ぐらいは、むくむくと描きたい気持ちが湧いてくる。不思議なものである。
木のモチーフはガジュマロの木。ベージュの葉は椰子の実の外側を煮込んで明礬媒染の色、それにおはぐろ鉄の媒染で墨。黄色はカユクニンの木、赤はラック。常温染めと媒染剤を組み合わせている。特にカユクニンの黄色は常温で染まってしまう。染めてあるから、もちろん色落ちはない。この方法は、いぜんタイのスリンの村のおばあから教えてもらった染め方。秘伝である。昔から伝えられてきた知恵なのである。

ひとつのドラマ

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ときには、スタッフの身の上話のようなことを聞くことになる時もある。ポルポト時代に強制結婚させられ、もちろん兵隊だった彼は亡くなり、子供を抱えて生きてきた研修生の女性。そんな話を聞かされる。戦乱の中で生き延びてきた人たち、そして、その子供たち。研究所の一人一人がドラマを持っている、そう言っても過言ではない。
ときに、そんな研修生の話を聞き終えて、相棒のロタ君に、いや彼女は大変らしい、と。しかし、彼は「みんな問題を抱えている、問題のない人なんかいないんだよ」と一言。なかなか厳しい。

昨日、自分でハンドルを握ってバッタンバンまで日帰りしてきた。シエムリアップに戻れたのは夜中の10時。久しぶりの、国道という名のオフロード。工事中なのか、道がただ壊れているだけなのか、良く分からない所も。あまリの激しさに、借りたトヨタカムリは、ホイールカバーが一個無くなり、バッテリーのキャップも飛んでしまった。やはり、カンボジアンオフロードにようこそ、だった。
ここ数週間、研修生の一人が、研究所に来るたびに何度か泣いていた。彼女はチャム人。お母さんは彼女のお父さんにあたらしい奥さんができて別れたらしい。そしてマレイシア人と再婚してマレイシアに暮らしている。事情があって、彼女はシエムリアップの親戚の家に厄介になり、一年半ほど前から研究所のお絵かき組にいる。そして、また事情があり、お母さんの指示で、もともとの田舎に戻らなくてはならなくなった。それが、涙の原因。カンボジアではまだ両親の言葉は重い。そして。イスラムだから余計なのかもしれない。
彼女はもう二十歳。自分の行く道は自分で決められるはず、そして本人もそれを望んでいる。しかし、彼女の周りの人たちは、そうではない。一昨日もそんなふうに泣きながら、早朝おじさんに同行されてバッタンバンに行ったようだった。研究所の仲間たちも心配している。そのひとり、同じチャム人の研修生が、彼女のお父さんがわたしとバッタンバンへ一緒に行くから、お母さんを説得して、彼女がまたここで働けるようにしてやってくれ、と言ってきた。
そして、そのお父さんと通訳兼のロタ君、同僚のバッタンバン出身の研修生の女性、わたしの4人で朝8時すぎにバッタンバンへ向かった。
肝心のお母さんは、マレイシアから事情がありこれなかったらしい。いかにもイスラム男といった風な、おじさんたち5人を前に、わたしはいかにカンボジアの伝統織物の中でチャムの人たちの織物がすばらしかったか、そしてそれを復元しようとしていることをひとしきり演説してしまった。そのためには田舎に帰させられようとしている彼女の役割がいかに大切であるかを、しっかり付け加えて。そんな男たちとのやり取りの話を横で聞いていた、お母さん世代の女性たちが好意的な、動き。そして同行してくれた研修生のお父さんもチャム人同士の会話で援護射撃。
無事に、泣いていた彼女は研究所に戻れるようになった。自分の人生が自分で決められない、それはやはり不幸なこと。できれば、あってはならないこと。ほっとしながら、暗闇のオフロードをシエムリアップに向け戻ることができた。

色っぽいナーガ

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わたしは京都のキモノの世界で、手描き友禅の職人さんをしながら暮らしていた。そのなかで、いい仕事をしたキモノ、それをたとえて、色っぽい、という言い方が普通だった。それは、誉め言葉。
研究所で、カンボジアの古布の復元をおばあちゃんや熟練の織手と取り組んできた。しかし、目標の古布の仕事は、そんな簡単に復元をさせてくれるほど、柔ではない。布が出来るまでの、いろんな条件や要素を復元することで、近づけるもの。そのために、括りの芭蕉の紐を作るところから、そして、最近では生糸の精練のための灰も自前で作り始めた。そして、なんといっても柄や色を決める熟練組の腕、その仕事のレベルが大切な要素。
約8年、そんな研究所の仕事もやっと、むかしの布の世界のふちにまで何とか辿り着けるようになってきた、そんな気がする。そして、ここ数ヶ月、その中でも中心にいる織手の気持ちが、傍で見ていても、すごいとわかるほどにあがっていた。気合が入っている、そんな感じだった。そんな、結果だろうか一枚のすばらしい布が出来上がってきた。残念ながら、これまで復元してきた布にストレートにそう感じることはなかった。その布を見た瞬間、色っぽい、そんな感じを無意識に感じていた。
それは、カンボジアの絣の柄の中でも代表的なナーガの柄であった。そのナーガが、そこに色っぽく横たわっている。硬さが抜けて、やさしさになって現れている。そんな仕事を、そこに見つけることができた。その布を見ながら、やっとここまで来れたか、とその時そう感じることができた。

我慢できずに

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桑の苗木を植えてまだわずか5ヶ月ほど。それでも、もう人の背丈ほどに伸び始めている。桑の木の成長は早い。苗木も研究所で準備して約一年ほど経っていたから。あわせて1年半。そんな育つ桑の木を見ながら現場のカンポットから来てくれている、何人かは気が早いもので、いつからお蚕さんを飼うのかと聞いてくる。
予定では11月ごろを考えていた。でも、そんな2000本の育つ桑の木を見ながら我慢できなくなってきた。葉っぱがもったいない。こんだけ葉があれば、どれだけのお蚕さんが育つことか。そんなことを考え始めたようだ。カンポットからのメンバーの中には、村でわずかな桑の木でお蚕さんを育ててきた経験者もいる。だから、余計なのかもしれない。
そのなかのひとりモクバット、彼はしっかり者のお母さんにさだてられてか、養蚕から糸引き、そして織まで器用にこなす。織をやる時はさすがに恥ずかしそうに、だったが、村の養蚕グループの中でもリーダー的存在だった。今回、伝統の森の現場に来てくれたカンポットのメンバーの中でもサブリーダーの役割を担ってくれている。そして、先のお正月には奥さんと子供もつれてきた。その彼が、今回の養蚕会誌に一番熱心だ。そして、お蚕さんを飼うための蚕室を建てなくてはならない、その話でも、わたしが、4X5メートルほどの大きさで、というと、それでは小さい、5X10メートルがいい、と主張してきた。なかなか、彼の養蚕に対する思いは強烈である。わたしは、彼が伝統の森現場での養蚕グループのリーダーとして名乗りを揚げてくれたと、理解した。嬉しいことである。彼は、すでに村の養蚕の専門家といってもいい。安心して負かすことが出来る。
気が早いもので、蚕室を建てる場所も新しい桑畑のそばに決まった。来月には建てる準備もし始めた。お蚕さんの一生は45日、早ければ、8月の半ばには、お蚕さんが元気に育ち、伝統の森初めての生糸が出来あがるかもしれない。

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カンボジアの伝統の布を代表する色に、藍がある。タケオあたりの織の産地の村には、それぞれ藍染屋があったらしい。というのはもうその面影も、経験者も見つけ出すことは出来なくなっている。95年の織物調査の時に、そんな藍染の痕跡を探しまわったが、見つけ出せずにいた。そして、ある織物の村で偶然藍染に使われていた壷を見つけた。壷の内側にきれいな藍色が染まっていた。そのことがきっかけで、一人のおじいさんを見つけることが出来た。
彼から、むかしの染の話しを聞くことができた。しかし、その70を過ぎたじっちゃんも数年前に亡くなってしまった。カンボジアの藍は沖縄の泥藍と呼ばれるものと同じ様な染め方をしていた。できれば、沖縄からもう一度カンボジアに、その泥藍を里帰りさせることが出来ればいいなと、考えたりしている。
藍染は日本では難しい染色といわれてきた、それは藍の醗酵温度に関係する。32度がその温度、寒い日本でその温度を保つことが至難。ところが、カンボジアの平均気温は、その32度。藍の葉を壷に入れてその辺に置いとくだけで、とりあえずは醗酵する。
むかしの名残か、タケオなどで野生化した藍の木を見つけ出した。カンボジアの藍はキアイと呼ばれるマメ科の藍。プノンペンの頃に、試験的に栽培した。こんかい伝統の森の現場で、やっと本格的な藍畑を用意することが出来た。タケオ、そしてカンポットで見つけた種。そして現在研究所を手伝ってくれている、日本人の女性が以前、南米のグァテマラに青年海外協力隊で織物を教えていた。それが縁で、グァテマラのやはり同じ仲間の、南蛮こまつなぎ科の藍の種も植えてみた。それぞれ順調に、芽が出て育ち始めている。まだ10センチほどだけれども、あと数ヶ月すれば、一回目の試験染が出来るはず。どんな色が染められるだろうか。今から、あたらしい楽しみが出来たような気がする。

草刈組

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シエムリアップの研究所から、伝統の森現場に草刈の援軍が定期的に行くようになった。毎回、15人から20人、ピックアップトラックに乗れるだけ。時には、さすがのポンコツトラック、途中で止まって、みんなで押したりすることもあるが、何とか役を果たしている。
たまに車の修理のために、休むことがあると、森の現場から「どうしたんだ」と声がかかる。研究所の彼女たちも、ピクニック気分で行くようで、お昼の用意もして、そして、一汗かいたあとの昼休みには、食後近くのシエムリアップ川で水遊びも出来るからか、草刈援軍希望者はあとを絶たない。
おばあちゃんたちも、時には若い研修生に混じって出かけることも、たまには気分転換もよし。そんな意味では、ちょうどよいリフレッシュの役割も果たしている。そして、もちろん現場の雑草もきれいになり、風景は見違えるほどになった気がする。おかげで、下草を刈ってもらった桑の木の成長も良く、ひとまわり大きくなったのではないだろうか。

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織物が出来るなかで、灰の大切さをあらためて教えられた。
大量に使うのは、生糸の精練。灰汁練とよばれる、生糸の余分なセリシンと呼ばれるお蚕さんが糸を口から吐いた時にそれを固めるためのたんぱく質成分、それは生糸の特徴でもある。それが残っていると、麻のようにごわごわした感じがする。生糸の繊維の表面のそれを取り除くことで、シルク本来の良さが出てくる。灰汁はアルカリ、たんぱく質にとっては大敵。半練り、という言葉もあるほどに、適度に取ることが大切といわれている。京都などでは糸屋さんとならんで、これを業としていた人たちもいたほどである。
現在では村でも、ハイドロなどの化学成分で代用する、しかしもとは自然の灰。研究所では、灰を村の人に頼んで届けてもらっていた。ところが、ばらつきがある。昔から灰にするベストはバナナ。石鹸のない頃にはバナナの灰がその代用になっていた。代用という言い方はおかしいが。現在、バナナの実のなる芯を市場から買ってくる、まいわばゴミになっているもの。それを細かく裂き、乾かし、燃やして、灰を作るようになった。そのおかげで、灰の品質が安定、精錬も安定するようになった。その結果、色の染まりも数段良くなった。灰汁は、自然染色の媒染材としても利用する。そして、上澄みをとった灰は土にまた返る。

出会い

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さきの5月の日本行きの直接のきっかけを作っていただいたのは、新潟県の頚城でカンボジアの支援を続けてこられたグループの方々からのお誘いがあったことから始まった。研究所の伝統の森の現場には、このグループの方々からご寄付いただいた、2本の井戸が活躍している。そのお礼の気持ちもあり、訪ねさせていただいた。
久しぶりに残雪を見た。もう20年、日本を離れて冬の日本に来たことはなかったから、雪など見ないですごしていた。そんな残雪の残る、魚沼あたりから、頚城にかけての山間の自然を見ながら、あらためて日本の山々のなかにある豊かな風景を見た気がした。
お呼びいただいた、頚城のお寺の方々のその小さな谷あいのお寺でお話をさせていただいた。お出でいただいた、地元の年配の方々と話しながら、その方々がもたれている経験や知恵についてあらためて感心させられた。それはわたしたちが今カンボジアで取り組んでいる、そんな経験や知恵を学び生かすことと共通していること。そんな方々の経験を生かすことが、これからの日本のなかでも必要な時期がやってきているのではないだろうか。そんなことを、今回の新潟行きの中で考えさせていただいた。これから、カンボジアのおばあたちと頚城のおばあたちが、なにか一緒に出来ることが見つかるような気がしている。そんな出会いを持つことが出来た日々をすごさせていただいた旅だった。

あらたな経験

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今回の日本行きのひとつの目的は、埼玉県の小川町を訪ねることだった。そこでは、有機農業をはじめとしてバイオガスを利用したクリーエネルギーの実用化など、資源の再利用のようなことをやってこられた方々の経験が蓄積されている。
いまわたしたちは、伝統の森という名で、あたらしい村をこれから作ろうとしている。それは、豊かな自然の中で暮らしてきたカンボジアの人々の生活を再生することが、大きな目的である。
わたしたちは、戦争の中で途絶えかけていた伝統の織物を再現するために、それを支えていた豊かな自然を再生することが必要であるという、所に至った。その結果が「伝統の森」プロジェクト。そのためには、カンボジアのなかにある伝統の経験と知恵、そして小川町のような、自然と人が生きることを大切にされている方々の最新の知恵や経験も併せ学びながら、村づくりを進めていきたいと思っている。
ソーラーシステムの自作を勧められている方ともお会いできた。そして、風や川の流れなどの自然の力を利用した揚水ポンプなど、いろんな経験がそこにあることを知ることが出来た。これをカンボジアでどういう風に生かしていけるかは、それはわたしたちのこれからの仕事である。

お詫び

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すみませんでした。更新できずに1ヶ月になってしまいます。
日本から戻ってから、2週間ほどはバタバタとすごしておりました。そして、こんどは肝心の電話線が切れてしまいました。電話会社に連絡しても修理に来てくれない。また、いつもの癖で、カンボジアだからしょうがないか、と思っていた。一週間が経ち、もう待てないと思ってまた連絡。そして、わかったことは、一度来てくれたらしい、研究所の電話線は2本に分かれていて、研究所のショップにつながっている線と、わたしの仕事場用とある、そちらが切れていたのだが、ショップだけをチェックして、大丈夫だと思って帰ってしまったようだ。
もう一度細かく再チェック、それで判明したのは、わたしの机のそばの電話線が、犬に噛み切られていた、束になっているからわからなかった。電話線の切断は我が家の犬が原因だった。この間は、椰子の葉っぱが落ちてきて、やはり切れていた。
研究所には、猫や犬がたくさんいる。そして、まだ小さい犬が最近何でもがりがり、やるようになっていた。スピーカーの線をやはりがりがり、何箇所か切れ、直してもノイズが入るようになった。困ったものだが、犬におこるわけにもいかず、それでも一週間、インターネット無しの時間をすごしていた。
そして、2003年度の事業計画の英訳を始めてしまって、一週間、やっとそれも終え、やっとこの短信の更新まで辿り着けた感じです。このあと、日本でのことなどを順次、更新する予定ですので、楽しみにお待ちください。

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