IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男
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精霊流し

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プチュブベンと呼ぶ、カンボジアのお盆も今年は25日に家族揃って寺に詣でるところでクライマックスに。そして翌日の早朝、川にはお盆のあいだ家に帰ってきていた身内の魂をまた送り返すために、カボーンとよぶ精霊流しを浮かべる。
バナナの幹を輪に切りそこに蝋燭やお線香を、そして霊が宿り送るための小さな旗が立てられる。こんなカンボジアの人々の自然な営みを見ていて、輪廻転生ということをあらためて考えさせられる。
人の死が、それ自体は悲しいことであったとしても、それを受け入れる気持ち。そんなことをこのカンボジアに暮らしながら感じてきた。これまでに幾度となく、身近な亡くなる人を送ってきた。そして、人々が近づいてくる死期を待ち、周りの人たちもそれにいっしょになって送る準備をし始めていく。わたしは、そんな彼らの自然の営みの姿を見ていて、改めて死とは何かということを考えさせられた。悲しいこととして、死を受け止めるだけではなく、それ以上にそれを自然な出来事として受け入れていく気持ち。
女性が多いけれども、だいたい60才を超え始めると、月々の仏の日(満月と新月、半月)に早朝、寺に出かけていく。ときにはその前日から、寺で一夜を過ごす。村の集会所で三々五々集まり、茶飲み話をしながら時を過ごす、そんな風に見えなくもない。そして、すでになくなった身内の話に花を咲かせたりしている。失礼な言い方かもしれないが、棺おけに片足置きかけた人が、両足を置くための準備に入るといえなくもない。でもそれがとても自然な動作として。そんな日々の中から、人々は自分が死ぬ、心の準備し始めるのではないだろうか。そんな風に思えてきた。
お金がないから薬が買えない、治療が受けられない。それさえも、そんな中で受け入れていく。その心はなんなのだろうか。ごめんなさい、でも他の人の臓器を買ってでも生きようとする人々がいるこの地球の、その片側でこんな風に自分の死を受け入れられることが出来る人々がいるということ。カンボジアの人々の優しさは、そんなところに根があるのかもしれない。そんなことを、川に流れる精霊を見ながら思っていた。

更新日時 : 2003年9月26日 08:41

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