2004年1月アーカイブ

金貸し業?

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研究所ではスタッフにお金を貸すことがある。基本的には給料の前払いなのだが。でもなかには、家族が病気で病院に入院したとか、事故で治療が必要だとか、そんなとき貸すことがある。もちろん無利息。雨季の時期に、雨漏りがひどいので、屋根を直したいから貸して欲しいと、いってくるものも。でもそのほとんどは、病気の薬代や病院の費用。4年ほど前、まだ研究所の研修生が少ない頃、スタッフの医療費の半分を研究所が負担することにしていたことがある。でも、少しづつ増えるに従って、偽の領収書を持ってくるものもいて、この制度は中止した。今でも先生格の古くからのスタッフには、個人的な判断で医療費の一部負担を実施している。
そして、お金を貸すようになったもとは、研究所に通ってくるために、自転車を持たない研修生に自転車を買うためにお金を貸すようになったのがはじまり。タイ製の高い自転車で、50ドル、日本製の中古の自転車で35ドルが相場。はじめのころは、みんな見え張りのところがあるから、お金がないのにやはり高いほうを買いたがっていた。でも最近は、そんな見栄を張ることもなく、丈夫な日本製の中古に人気がある、それになんといっても安い。給料から、毎月天引きで5ドル、というのが多いが。なかには、2,3ヶ月で返してしまう剛毅な者もいる。
それと、さいきんわかってきたのだが、金貸し銀行から借りているものが随分いることだ。この銀行は、もとはカンボジアのローカルの大手NGO。ユニセフなどと組んでプロジェクトを実施していた。もしかしたら、いまでもNGOかもしれない。
きっかけは、開発業界の人たちの中で人気のある、グラミーバンクとかいうシステムで、ほんとうは貧しい人たちを助ける目的で設立されたもの。たしか、バングラデッシュやスリランカなどで実績を上げているらしい。そのカンボジア版。元の資金は、だからアジア開発銀行などが支援していたはず。でも実際に今おこなわれていることは、高利の金貸し業。
利息は、約7ヶ月で倍返しになる。7ヶ月なんてあっという間であるから、担保の土地をなくす農民も多いと聞く。この金利、それでも町金融より安いらしい。研究所の研修生で、ここから借りているものが案外たくさんいることがわかってきた。困った時の、何とかで、他にすがるものもなければ、ノーチョイス。話しを聞いているとそのほとんどは、家族が病気になり病院の費用を作るために借りたケースだった。
しかし、なかには研究所からもらう給料のほとんどをその利息返しに当てている研修生もいる。子どもを小脇に抱えて、毎日研究所に通ってきている彼女を見ていて、そんなして働いても、その30ドルの給料のほとんど(約28ドル)は銀行の金利で消えてしまう。200ドルを銀行から借りた結果である。でも、元気に毎日やってくる彼女をみていて、できるものならば手助けが、なんて気になったのがきっかけ。でも、考えたらお人よしかもしれない。研究所だって余分のお金があるわけではないから、ケースバイケース、その時の気分で、かな。出来る範囲で銀行からの金を立替払いし。あとは研究所に、利息無しで、元金を返すようにする。そんなことをやり始めてしまった。それを聞きつけた、他の研修生も、わたしも、と言いながらやってくる。でも基本は日頃の、その研修生の仕事振りとわたしの一方的な判断で決めるようにしている。そのハードルは高い。

大工組み

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研究所の男女構成は、ほとんどが女性である。
織物の仕事は、日本やインドのように専業化し職業化すると男性の仕事になっていく。料理と似ている。しかし、それが家庭内で副業的になされている段階では女性の仕事となる。カンボジアでも織りの仕事は村レベルで女性の仕事としておこなわれてきた。
現在、約400人になる研究所のスタッフのなかで男性は約50人ほど。そのうちの40人近くは森の現場にいる。開墾組みとでもいえる若い衆たち。桑畑の造成や管理に携わってくれている。
シエムリアップの研究所にいる、男性のほとんどは大工組。織機から糸車や竹ザルまで、必要な道具のほとんどは自前で彼らが作っている。そして、研究所にある作業所なども建ててしまう。さいきんではあたらしい第三の「隠れ工房」の建物をみんなで建ててくれている。
その中心はオムパット、70歳を超える。彼は80年代、戦争で荒廃した王宮を修復するために呼ばれたほどの腕のある大工さんでもある。そんな彼が若い衆に、道具の作り方から手ほどきしてくれている。そして、家具も作れてしまう、器用な大工さんである。研究所に竹と木で作られた素敵なイスがある、これも彼の作品。そのうち研究所でも家具部でも作って売り出そうかなと思えるほどの出来である。
伝統の森では、スタッフの居住用の藁葺きの簡易住宅から、瓦屋根のお蚕さんの飼育小屋まで現場のみんながやはり自前で作ってしまう。昨年の暮れから、森の現場でも伝統的な農家を再現するようなかたちで、あらたに家を建て始めようとしている。その中心のために大工の親方が、カンポットの村からさいきん来てくれた。そのぶん仕事がスマートになってきた。当面の予定は、まず瓦屋根の木造の家を建てるために準備をはじめた。周辺の農家から、建築用の木材を譲ってもらったりしながら。
これから、伝統の森では財政が許す範囲で、みんなが住むための伝統的な形の農家の再現を進めてゆく予定である。だから、森の現場でも大工組が出来つつある。約8人。やはり器用に現場あわせの大工さんをやっている。
森にしろ、シエムリアップにしろそれぞれ、大工組の仕事は新しい家が出来るたびに、立派な家が出来るようになってきた。これは、彼らの熟練度に比例しているのだろう。この立派なという意味は、豪華ということではない。ある手ごろな材料で、素敵な、しっかりした家を建ててしまうということである。これから、森の現場には、ほんとうにあたらしい村を作り出してゆこうとしている。そのために、大工組の仕事は忙しくなっていく。そして、それを手伝いながら、腕を上げてゆく若い衆たち。これも研究所の研修のひとつといえる。

手漉きの和紙

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研究所の新しいプロジェクト、和紙作りがついにはじまった。
長野県、飯田市の南信州国際ボランティアグループのみなさんの協力により実現したプロジェクトである。まず2002年12月にコウゾの苗木を届けていただいた。そして、それから約一年、ボランティアで研究所の活動を手伝っていただいた久保田春美さん。その苗木も順調に育ち、紙を漉けるところまで辿り着けた。この1月には、紙漉きの先生久保田さんのお母さんも来ていただき、研修生に紙漉きの実技指導。
いまでは、研修生が自分たちで出来るところまでステップアップ。指導を受けた2人の研修生は、紙がすけていくのが楽しそうだ。研究所のプロジェクトは、みんながそれで食べていけるための、事業を立ち上げ展開することが基本。みんなの仕事を作ることが、研究所の仕事といえる。
この和紙を使って、研究所のお絵描き組に早速出来上がった紙に書いてもらうことにした。素敵な和紙に、お絵描組の彼女たちが、どんな絵を描いていくかそれも楽しみである。そして、本格的に紙ができるようになれば、研究所の布の包装にこの和紙はいかせるだろう。いろんな可能性がこれから考えられる。
コウゾだけではなく、桑の木も使って和紙を漉いてみた、これもなかなかいける。思っていたよりも、風合いのある紙が出来始めてきた。
研究所の新しいプロジェクトが確実に立ち上がりつつある。南信州のボランティア会のみなさん、ほんとうにありがとうございます。

棲み分け

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三日間のグランドホテル横の川沿いでおこなわれたシルクフエスティバルは無事終えた。
販売もやっていたが、そちらのほうは、あまり売れたとはいえない。
ほかのNGOやショップの布と比べれば研究所の布は手間がかかっている分、割高に感じるはずである。でもシルクのクオリティーは数段高いと自負している。それは、研究所の布に触れた時に違いとして手が感じてくれる。むかしなりの手作業で作ることをしている、それはただ単純に手でむかしなりにすることが良いという意味以上の価値を伝統の技術や知恵は持っているということに由来する。
だから、素材としての生糸もほとんどの団体や店はカンボジアシルクといいながらも主には手間の省けるベトナムからの輸入生糸を使っている。タイシルクといいながら、じつはそのほとんどの糸は中国やベトナムからの輸入生糸に頼っているのと似ている。これは、日本の伝統工芸と呼ばれる世界でも似た現象があるのだが、原材料は安い東南アジアから、場合によれば海外で作られた物を販売しているだけという伝統工芸のグローバル化?の産地もあるはずである。省力化の極といえなくもない。しかし、素材にたいする心がそれといっしょに薄れていくのではないだろうか。
単純に研究所の織機を一台動かすために最低5人の人がいる、でも一般的な中国やベトナムの機械引きの生糸で織ればその半分で足りるはずである。省力化?でも機械で繭から糸を引き、織るために改良されてきた、可哀想なクーロンお蚕さんの吐く糸なのである。最近の中国製の安いシルクの製品を使われたことがある方はご存知のはずである。水洗いに耐えられない、そんなシルクなのである。
そんな研究所の伝統的な技法を保持、復元する姿勢にたいして来場者からたくさんの賛辞を頂いた。シソワット殿下や元文化大臣などのカンボジアの方々から、それが、ほんとうにこんかいの大きな成果といえる。そしてこれまで、研究所は日本人以外の外国人に活動を積極的に紹介することをしてこなかった。なぜならば先発の名の知れたフランスのシルクファームが活動していたから、後発の研究所は一歩引いてきた。研究所の活動も、シエムリアップに来てからすでに4年、研修生の数も400人と大所帯になってきたから、だれもがその活動を見やすくわかりやすくなってきたといえる。そしてカンボジアの伝統的な絹織物にたいして、フランスのエージェンシーはシルク産業の近代化を、IKTTは伝統の掘り起こし、といふうに活動の目的が明らかに違ってきた。住みわけとでも言うものが成立してきた。その意味でもこんかいの展示会への出展の意義は大きかった。
フランスに難民として行って、フランス人と結婚、現在はカンボジアに戻ってきて暮らす女性が展示していた研究所の新作絵がすりを見ながら、彼女の子どものときに母親が見せてくれた布とおなじだといって、涙しながら喜んでくれたりした。ほんとうに光栄なことである。
4月のカンボジアの新年の催しの時に、また展示即売の機会があるようだ。

バッタンバン

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写真は、最初が焼け出された研修生の家。そのあとは、バッタンバンの市場の風景。

久しぶりにというか、突然バッタンバンに自分で車を運転して行ってきた。
研究所の研修生でバッタンバンから来ている一人が、夕方自分の家が火事で燃えてしまったといって泣きこんできた。そして、心配だからいまからすぐ行きたいと。といっても、時間は夜の8時。乗り合いトラックの便はもう走っていない時間である。
最近研究所に、あたらしい、といっても10年落ちのトヨタハイラックスが好意のご縁でやってきた。研究所でははじめてのエアコン付きの車である。それが、ちょうど燃料を満タンにしておいてあるのに気がついた。
そして、彼女の泣き叫ぶ姿を見ていると、ほっておけなくなった。深夜のタクシードライバー。ダンシングロードの異名をもらっている、国道をそれも深夜に160キロほど走るのは決して気乗りがするものではない。治安面では昔のように、明るいうちに町に戻らなくては、なんて心配はしなくても良くなったが。
研究所のドライバー氏にも同行してもらい、夜8時半、バッタンバンに向けて出発した。そして、途中シソポンまではあいかわらずのオフロードだったが、驚いたことにシソポンからバッタンバンまではきれいに再舗装されていた。夜中の12時半には無事バッタンバンまで辿り着くことが出来た。町の市場に近い彼女の家のそばまできたら、きな臭い火事独特のにおいがして、現場が近くにあることがわかるほど、たくさんの家が焼け出されていた。うれしそうに家族と抱き合う彼女を見ていて、無理して走ってきてよかったと思えた。
一緒に同行してくれたバッタンバンに親戚がいる研修生の知り合いの家に、夜中の1時過ぎに押しかけ、泊めてもらい、翌朝、再び現場に行ってみた。黒山の人だかりのなか、家族でかたず家をしていた、お父さんは肩の力が抜けていた。着の身着のままで焼け出されたようで、今日の食事をするお金もないようだった。ちょうどそんな気がして用意してきたお金を置いてきた。

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明日、23日から25日までシエムリアップのグランドホテルの川沿いのスペースでシルクフェスティバルがおこなわれる。

主催はフランスのエージェンシー、そして農村開発省の共同機関である通称PASS。カンボジアの国家プロジェクトとしてのシルクの振興に取り組んでいる機関でもある。ここ数年、とくにこの一年ほどIKTTとそんなフランスのエージェンシーやNGOの人たちとの関係が強くなった。最近では、彼らが進める伝統的な養蚕プロジェクトの村でできた生糸をも研究所が購入するという関係にある。
シエムリアップでは老舗のプオ郡にある有名なシルクファームでは、ベトナム生糸が主流になりカンボジアの黄色い生糸は実際には使われなくなっている。そして、かれらはシルク産業の近代化を目指してきている。フランスはもともと、リヨンという素晴らしい絹織物の伝統を持つ国である。江戸末期の日本に近代的養蚕の技術を導入指導してくれたのもそんなかれらである。

IKTTはひたすら、伝統の掘り起こしを進めてきた。これはひとえに日本の伝統染織のなかでそのこだわりをはぐくんできたわたしの心でもあるのだが。そんな研究所の活動を彼らは高く評価してくれている。だからこんかいのシルクフエスティバルでもフランス系のシルクファームやアルチザンアンコールは近代的なシルクの開発とそんな改良された技術の結果を展示する。しかし、研究所は自然染色や伝統的な織物技術の粋の部分を展示する。それは、完全な住み分けのようである。そんな関係が、このシエムリアップで出来つつある。

いくつかの有名なシルクショップも店を出す。総数で11のNGOや機関、そしてショップが軒を連ねてシルク祭りをする。この準備から運営まですべて研究所のスタッフで取り仕切れるようになった。これもうれしいことである。研究所は2区画分を頂いたので、織機を持ち込み、芭蕉の紐での絣の括りや自然染色の実演も披露する。これも最近好評の展示実演である。また、研究所のおばあたちの晴れ舞台が用意できた。

中国正月、そして

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写真は伝統の森の現場に出来た木の上の見張り小屋?、アヒルたち、昨年から試験的に植え始めた綿花から紡ぐ準備をはじめたところ、そして綿の花。

今年の中国正月は1月21日。このシエムリアップの町でも深夜の12時に町の中で新年を告げる爆竹の音が鳴り響いた。昨夜あたりから、夜にはなかなか大きな打ち上げ花火があがっている。
この東南アジアの町はどこも中国系の人たちが多く暮らしている。
村の人たちと話していて、町のことを村と区別して「市場のあるところ」というような意味のスロックプサーと呼ぶことがある。だから、逆に村のことを「田もしくは、畑のあるところ」と呼ぶ。それはそんな中国系の人たちの商う、昔の街道筋の市場を連想させるような言い方であるように思える。そしてそこで商う人たちの多くは中国系の人たちではないだろうか。
やはり商いは中国系の人たちにかなわない、それがなぜなのか謎のようでもあるけれども、事実なのである。研究所でも小銭を数えるのを「恥ずかしい」と感じるのは、村からの研修生に多い。逆に町からの、中国系の研修生は小銭を数えることに違和感がない。この差は大きい。

そんな村の人たちが稼げるようになっていってくれれば良いと思いながらすすめている事業が、いまの研究所の仕事のようでもある。でも、多くの研修生は今日のお昼に何を食べようか、それしか考えていない。明日何を食べようかまでは考えていないというのも事実。これが良いことなのかどうか、というのもなかなか判断に苦しむところ。日々、食べられることで、今日があり明日があると考えれば、今日食べられることを考えるだけで充分と言えなくもない。

苗木を作り始めたところだが、研究所では森の現場で本格的な綿花の栽培に取り組み始めた。1960年代まで、カンボジアでは盛んに綿花は栽培されていた。プノンペン周辺の村の人たちの話では、昔のメコン川の河岸では綿畑が一面にあったといわれている。いまではその跡形もなく消えてしまっている。そのころ、バッタンバンとコンポンチャムには綿糸工場もあった。バッタンバンのその工場跡は今では廃墟のようになっている。コンポンチャムの工場は今では台湾系の人によって、縫製工場に生まれ変わっている。

クローマと呼ぶ庶民の布がある。カンボジアの人ならば必ず一枚は持っている布。頭に巻いたり、水浴びや物を包んだりとその使用目的は多様な布。基本は木綿。むかしは、これを手で紡いで織っていた。でもそんな伝統も消えてしまった。いまでは市場にあるそんなクローマの布も、機械で紡いだ木綿か化繊が主流である。そして、丈夫でなくなっている。でも唯一の救いは、現在でも手織りで作られていることだろうか。その肌触りの柔らかさは、手織りに勝るものはない。一番の産地はプノンペン近郊のキエンスバイ村。ごく最近では半自動化された織機に取って代わられようとしているが、かろうじて手織りの仕事が残されている。
研究所では、手紡ぎの木綿をむかしのように再現したいと考えている。20年ほど前、タイの東北タイの村を織物の調査でまわっていた頃、まだ村にはそんな手紡ぎの木綿が残っていた。その布の風合いは、今でも忘れられない。そして、丈夫だった。カンボジアの村には、そんな木綿の糸を藍で染めていた。伝統の森の現場では藍の木も育てはじめている。むかしのような、やさしくて丈夫な木綿の布をもういちど伝統の森で作り始めようとしている。それは、村の人たちの、あたらしい仕事の創造にもつながることである。そして、いまならまだ手紡ぎの技術を持ったおばあたちが村にいる、そんな彼女たちを呼んで、研究所の若い研修生に教えてもらおうと考えている。

隠れ工房

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研究所が活動を始めた95年から数えて、今年でちょうど10年が経つ。
最近その成果とでもゆえる布が出来始めてきた。一枚の素晴らしい布が出来るには、ほんとうにときには偶然とでもいえる、いくつかの要素が重なって初めて可能になる。糸、色、織、そして、そして、ほんとうにそれぞれの最高の状態が重なってはじめて生み出されるもの。
研究所のおばあたちや二代目たちは、そんな、ときにはため息が出るような布を作り始めてきた。脱帽である、そして感謝。
最近のその一枚は、ちょうどシエムリアップのお寺の敷地のなかにあるクメールスタディーセンターのギャラリーで開催していた古布の展示会場での実演を兼ねた作業の中で生まれた。最近の研究所は訪問者が増えたり、研修生が連れてくる子どもたちが走り回る、そんなにぎやかな日々が普通になってきた。それと対照的に、お寺の静かな環境のなかで約三ヶ月展示会は開催されていた。その結果なのかもしれない。
ちょうど研究所は、増加する研修生のなかで場所も手狭になり始めていた。そして、そんな静かな環境をそんなおばあたちに提供できないかと考え始めた。そして、偶然そんな研究所から遠く離れていない適当な場所が見つかった。隠れ工場?思い切ってそこに小さな工房を建てることにした。三番目の工房である。昨日、そこで祈祷師のおじさんを呼び、土地の霊にここで仕事をさせてもらうための挨拶の式をした。
にぎやかな、エネルギーのあふれた300数十人がいる現在のワークショップとは別に、30人ほどの小規模の静かな工房になる。ここで、研究所の最高の布が出来るようになればと願い、これもトライアルである。常に進化する、研究所の新しい試み。どんな結果が出るか、楽しみである。この欄で公開してしまったから、隠れ工場とはいえないが、とりあえずは隠しておこうと思っている?

森での出来事

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昨年の一年間、森ではいろんなことがあった。
まず1月に、伝統の森の再生のために、シエムリアップにおばあたちが集まってくれたことだろうか。その多くは、わたしとの付き合いも10年近くになる。村での養蚕の再開のために、自然染色の再現のために、伝統の絣の復元。そんなことを一緒に取り組んできてくれた、おばあたちである。
2月には、カンポットの村から男衆が20数人、現場に来てくれた。そして、ほんとうに手作業で開墾は始まった。そして、桑畑、藍畑、自然染色のための木々。生活のための小屋も出来、新潟県の方から送られた井戸も合計4本になった。野菜畑が出来、いまではアヒルも飼えるようになった。12月にはわずかだが、米も収穫出来た。来年からは、伝統の浮稲も栽培する予定である。
そして、なんといってもお蚕さんを飼うようになり、生糸が出来始めたことだろうか。そして、埼玉県の小川町の方々の協力で、ソーラパネルでの発電も始まった。まだまだ小規模だが、これからの伝統の森の発電をソーラパネルで実現してゆきたいと考えている。牛も飼い、バイオガスも実現したい、それは今年の課題のひとつでもある。試験的に栽培した、綿や藍もこれから本格的に開始する予定である。

そして伝統の森で、初めての赤ちゃんが生まれた。縁起の良いことである、この子が元気に育つように、伝統の森も元気に育って行って欲しい。家族ずれも住み始めた、そしてこどもたちも増えてきた、近いうちに寺小屋も建設する予定である。いまでは森に暮らす人は60人を超えてきた。最近、駆け落ち騒ぎがあった。でもまた戻ってきてくれるように思う。元気な、日々進化する伝統の森プロジェクトである。

引き抜きその後

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もう年を越してしまいました。すみません、筆不精を決め込んでいました。
2004年。今年は研究所にとっても大切な年となる、そんな予感があります。今年もどうかよろしくお願いいたします。

まず前回の引き抜きその後から、お伝えいたします。

約20人ほどが引き抜かれていったのではないでしょうか。でもうれしかったのは、動いていったのはほとんどが中堅の研修生で、研究所の300数十人の中心を担っている約50人は、倍の給料を出すといわれても動かなかったことです。
この研究所で働くことが好きだと、ここで仕事をすることが誇りだといってくれたのです。こんな気持ちでみんながいてくれることがうれしかったです。
知り合いのアプサラダンスの先生も踊り子が引き抜かれていったと嘆いていました。急激に成長するシエムリアップの町は、そんな激しい動きの時期を迎え始めているのかもしれません。研究所の研修生が、新しい仕事場で、研究所で学んだことを生かして成長して行ってくれればそれはそれで良いことです。それが、彼女たちの次のステップになることを願います。
しかし、研究所のリーダー格の女性から、引き抜かれていった研修生や行くかもしれない研修生に対して厳しい言葉がかけられ、わたしにそんな行くかもしれない研修生にはもう教えなくても良いから、と逆に提案があったりしました。雨降って地かたまるといいますが、こんかいの出来事は研究所にとって良い結果をもたらしてくれたようです。

伝統の森の空撮写真です。テレビ朝日系列で2月の29日放送予定の「宇宙船地球号」で研究所の活動が紹介されます、楽しみにしてください。12月、その撮影の時に伝統の森を空撮しました。その機会を利用して伝統の森を空から見ることが出来ました、最新の様子をご覧ください。
伝統の森は最初の5ヘクタールから、昨年の12月にあらたに隣接地5ヘクタールを購入することが出来、現在、約10ヘクタールとなりました。幅125メートル(東西)、奥行き800メートル(南北)ほどあります。
入り口に近いところには、桑畑や野菜畑と共にスタッフの住む小屋が約10棟ほど出来ています。そして、蚕小屋。奥の新しい土地は三方を沼に囲まれた所です。それを利用して最近、アヒルを飼い始めました。

カンボジアは、アンコールの遺跡群で知られるように、古くから独自の文化を築き上げてきました。非常に繊細な絣の絹織物も、そのひとつといえます。その絹織物を支えていたのが熱帯種の蚕が生み出す黄金色に輝くしなやかな生糸でした。しかし、1970年に始まった内戦とその後の混乱のうちに、優れた織り手の多くは亡くなり、その優れた技術は途絶えかけていました。村の暮らしとともにあった養蚕の伝統もまた、廃れかけていました。

カンボジアで伝統織物の復興とその活性化に取り組みはじめたクメール伝統織物研究所は、1995年にカンポット州タコー村で小さな養蚕再開プロジェクトをはじめました。それは、生糸なくして織物の復興はありえないと考えたからであります。その経験をもとに、新たな地域での養蚕プロジェクトの展開を計画、バッタンバン、そしてポイペットへ苗木を準備、届けました。しかし、この両地域ではそれぞれ異なる理由で養蚕の再開にいたることは出来ませんでした。この養蚕プロジェクトの経験は、シエムリアップへの研究所の移転と共に、あたらしい展開へと発展してきております。それは、シエムリアップでの「伝統の森計画」の開始とそこにおける養蚕の実施であります。

養蚕をはじめるためには、まず桑の苗木が必要です。その活動を、日本から多くの個人の方々よりこれまで支援してきていただいたのが「桑の木基金」です。2003年、新た始まった「伝統の森再生計画」では、桑の木のみならず、綿花や自然染色の染め材となる植物――藍、ブロフーやライチ、そしてラックカイガラムシが棲む木など――の苗を準備しながら、伝統織物を支えていたカンボジアの自然環境=森の再生、復興を進めていこうとしています。そのために現在、「桑の木基金」はその対象を桑の苗に限定せずに、森の再生に必要な苗木を準備するための基金として継続させていきたく、しかし、「桑の木」の基金名称は活動の象徴として残していきたいと考えております。

伝統の織物の復活と、それを包み込む自然環境を取り戻すために、カンボジアに“森”を育てていきませんか? 皆様のご支援ご協力を、ここにあらためてお願いいたします。桑の木基金は、苗木3本を一口とし、一口3千円とさせていただきます。(2004年1月)

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  1口:3000円
  口座:国際ボランティア貯金 ぱるる
  記号 14400-2 番号 29352321
  名義 森本喜久男
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