手の仕事
カンボジアの伝統の絹絣の仕事をしながら、あらためて手でする仕事のことを考えるようになった。伝統の絣の柄は基本は母から子へ受け継がれてきた。そして、そこには下絵になるようなものはない。すべてが、手の記憶によるものである。
こんな経験をしたことがある。96年、まだIKTTの活動を始めたばかりの頃のこと。優れた経験のある織り手を探して、タケオ州の織物の盛んな村を回っていたとき。これぞという腕を持つ年配の織り手に、持参した古い絣の布を見せ、わたしの布は古くなってしまったので、この布と同じものを織ってほしいと頼んだ。そのやりとりを見ていた隣の雑貨屋のおじさんが、とつぜん自分もと、絣の柄を括り始めた。
彼が括りを始めた直接の動機は、わたしがその年配の女性に、通常の仲買人が支払う数倍の手間賃を払うことを知ったからであった。そして、彼の母親は内戦の中ですでに他界していたが、村でも腕のいい織り手であったらしい。そして、彼は子どものころに母親の絣の括りを一緒に手伝っていた。彼の手に伝統の絣の柄が記憶されていたのであった。
彼が括りだした伝統の柄。それは唐草風の囲いの中に花柄がアレンジされた風格のある柄。それは、それまで、どこでも見かけられなかった柄でもあった。こんな風に、手の記憶が伝統の柄を蘇らせていく。
手には皮膚感覚があり、脳とつながり身体の一部として常に機能する。記憶する手とは、道具としてではなく身体そのものといえる。手でものを作るという、人としての根源的な動作の結果である。
動作の積み重ねとしての経験値の蓄積が記憶として形作られていく。そして、やはり経験値としての美への意識がそこに重なりながら、手の記憶としての絣の柄が生み出されていく。
そうして、もうひとつ大切なことは、動機としての欲。しかし、美はひとつではない。多様な、異なる美意識が存在している。タケオの織り手が好む、正確な細かい模様の繰り返しの中に感じる美と、チャムの織り手の好む大胆な柄は、対極の美意識といえる。そして、その融合がカンボジアの絣のすばらしい世界を形作ってきた。
それは、何世代にわたり身体のなかにインプットされてきた世界があることを意味する。しかし、同時にそれさえも、何世代にもわたる経験値の蓄積なのだが。
手の記憶をたどりながら、身体の一部としての手でものを作るということの意味のようなことに、いま思いをめぐらせている。
更新日時 : 2008年8月11日 21:18


