クメール語の小冊子
男衆のなかでは若手。シエムリアップのショップで、主に英語圏の訪問者の案内を担当しているサーカー青年、21歳。大学に通いながら、IKTTで働き始めて1年半ほど。IKTTに来たとき、すでに簡単な英会話ができるレベルだった。わたしのプノンペン時代からの知り合いのカンボジア人の男性が彼のおじさんで、紹介者。大学での勉強を続けさせてやりたいからと頼まれて、引き受けた。
彼の仕事はそんなに忙しいわけではないので、英語の勉強も兼ねて、わたしが持っていたカンボジアについての基本的な歴史や社会の英語版の本や資料を渡し、空いた時間に読むように薦めた。そして、英語のレベルをさらに上げていくために、大判の英々辞典も買って、使うように渡した。IKTTを訪ねてくるドイツ人やフランス人たちのなかには、すでにIKTTのことをよく知っている人も少なくない。面白いことに、そんな人たちからの質問を受けることで、彼自身がIKTTの活動や仕事に興味を持ち、資料を熱心に読むようになり始めた。そして、お客さんからの質問に答えられなかったことを、わたしにも訊ねるように。
そんなやり取りをしながら一年ほどしたころ、大学の先生は本に書いてあることを説明するだけだといって、勉強している経済や経営学についてもわたしに質問してくるようになった。IKTTを例に取りながら、生産コストの考え方や損益そして組織など。ときには、銀行の役割みたいなことまで。
先生の説明よりも、わたしの具体的な例や説明がわかりやすいといって、あれこれ疑問に思ったことを質問するようになっていた。
わたしは10代の後半、油絵を描きながらアルバイトをし、夜は定時制高校に通っていた。音楽も好きだったが、夕方、その日の仕事を終え高校に行くまでのしばらくの時間、日課のように駅のそばにあった大きな古本屋に行くのが楽しみだった。一日で新書一冊は読むなんていう鬼のような先輩もいたりして、そんな彼と話をすることも楽しかった。
古本屋で立ち読みするだけでは限りがある。手に入れたい本を買うために昼飯代を削って本代に充てたこともある。そんな話をサーカー君にした。すると、彼は妙にうなずいていた。米粒でお腹が満たされるより、知識で満たされることがときに素晴らしいことがある。知に対する飢えを感じること。
いま、ちょうど彼はそんな時期にいるようだ。
先日、カンボジアの王族の方が「伝統の森」にお越しになった。そして後日、丁寧な感謝状が届いた。それは英語で書かれていたのだが、IKTTのみんなにも読んでほしいと思い、彼にクメール語への翻訳を依頼した。
これまでも、政府関係の書類などを英語に訳してくれていたのだが、実際にその翻訳現場を見たことがなかった。驚いたのは、その速さ。英語の文書をパソコンの横に置き、わたしの日本語入力より速いスピードでクメール語が打たれていく。下書きなし。パソコンは入力しながら訂正が簡単にできるからといっても、早い。打ち終わったものをプリントアウトして、他のスタッフに見せても、文章力もピカ一のようだ。
どんなアヒルの卵かな、と思っていたら、突然金の卵が現れた、そんな感じ。試しにIKTTのウェブサイトの英語版を(これも私がウェブサイトに書いた日本語の原稿を英訳してくれるボランティアの松岡さんあってのものなのだが)、いくつかプリントアウトして渡してみた。早い、二日ほどで3タイトルの翻訳があがってきた。そのうちのひとつ、「お絵描き組」について書いたクメール語訳を、さっそく「お絵描き組」の女性たちに見せた。みんな一生懸命に読んでいる。そして、わたしがなぜ給料を払いながら、好きな絵を毎日描かせているのか、今日これを読んではじめてわかった、という答えが返ってきた。そして改めて、ありがとう、と。
わたしのクメール語の限界もあるのだが、日 々 の仕事の話はできても、その背景や思いまではなかなかクメール語では伝えきれない。それを、この翻訳文は補ってくれることに気がついた。次々とあがってくる翻訳文。そして、IKTTのなかで回し読みの回覧板。いろんな反応が、いろんなかたちで返ってくる。
そんなみんなの様子を見ているうちに、この翻訳を小冊子にまとめることを思いついた。IKTTに来てくれるカンボジア人のガイドさんたちのなかにも、熱心にわたしの話をメモっている人がいる。そんな人たちにも、これを読んでもらえれば、もっとIKTTについて、「伝統の森」について、理解してもらえるのではないだろうか、と。その話をサーカー君にしてみた。
すると、彼の大学の同級生たちもこの翻訳文を仲間で回し読みして、そして議論になることもあるという。だから、小冊子になればもっと嬉しいという答えが返ってきた。
じつはカンボジアには、本屋さんも町に数えるほどしかなく、本や雑誌の類もごくわずかしかない。大学だけではなく、高校や中学などで勉強している人たちも、読む本が本当に限られている。IKTTで働くお母さんたちの子どもたち、小学校や中学校に通う子どもたちにこの翻訳の回覧板を回してみた。興味があるという。もっと読んでみたいという答えが返ってきた。そして、これを友達にも読ませたいという希望も。
当初は、クメール語での簡単なIKTT紹介本ぐらいに考えていたのだが大学生から中学生や小学生高学年の子どもたちにも読ませてあげたいと思うようになってきた。そのために、IKTTの「伝統の森」活動報告2009年版を新たにまとめたり、わたしがプノンペン時代に書いた「カンボジアの村にて」というタイトルの、自然環境の復元が伝統織物の復元において大切な意味を持つことをまとめた原稿も翻訳してもらった。
カンボジアの生きた伝統の姿や、その大切さ。そして、自然環境や「伝統の森」の村での生活などにも触れることで、IKTTの全体像を伝えられるように内容を充実させ、全体では150ページを超える小冊子になる予定。
表題も「森の知恵」を考えている。
カンボジアのシルクがどんなすばらしいものなのか、そんなことすら知る機会が失われてしまっている現在のカンボジアの人たちに、この本を届けられたらと思うようになった。
森本喜久男
更新日時 : 2009年7月 6日 09:22