IKTT
IKTT :(クメール伝統織物研究所)森本喜久男

自然との融和

 もう4年ほど前になるが、ドイツとフランスで有名なアルテというテレビ局のドキュメンタリー番組が、IKTTを取り上げてくれた。ヨーロッパ各地で、何度か再放送もされているからか、今なおIKTTを訪ねてくる人たちのなかに、アルテの番組を見たという人は多い。

 その制作担当ディレクターだったイタリア系ドイツ人の女性が、撮影が始まって一週間ほどして、お前はクレイジーだと言いはじめた。なにがクレイジーかと言うと、お前は金のために動いていない、それはなぜだ、と。そして、そのクレイジーなお前が撮りたいと言いはじめた。1時間ほどの番組の中ほどに、そんなわたしが映っている。ひとりででこぼこの荒地を車で走り回る、そのかたわらを牛車が通り過ぎていくシーンだ。

 さらには、撮影の最後日。これから空港に行くという日の朝、彼女はもう一度やってきて、朝日のあたるベランダでのワンショットを撮っていった。そして、わたしに「朝日を浴びながら、いったい何を考えているのだ」と、くいさがる。しかし、わたしが「何も考えていない」と答えると、何も、そうナッシング、わかった、と言いつつ最後のビデオを回していた。

 ナッシング、それを彼女は禅問答の「無」と理解したようだ。でも、わたしの場合は、ただの「何も」だったのだが。

 そのディレクター女史、それから数年して、カンボジアでの別の取材の際にシエムリアップに寄ってくれた。そのとき彼女は、あの番組は評判がよく何度も再放送されていると言いながら、あなたの仕事のスタイルにはヨーロッパ人にできない何かを持っている、と話していた。それはときに、彼女から見れば、アジア的な東洋人の謎のようなものかもしれない。

 あえて意識していなかったが、そんなふうに言われて、ふと考えるようになった。たとえば、朝日を浴びながらコーヒーを飲む朝のひととき。これは、森林浴と似ている。朝の空気、椰子の木の陰から徐々に輝きを増す朝日、そして少し古い木造の二階家のテラスのそこから見える朝の風景、木々のシルエットや川の流れ、それらを含めた自然のあるまま、そんなすべてのものが一体となって、そこにある。少し哲学的にいえば、エグジスト、存在している、ということ。そんな空気の中にいる自分と、その時間。

 しかし、わたしにとって、それは無意識の中で一体化しているもので、あえて考えることではない。だから、わたしにとっては「何も」という答になる。が、じつは、そんなふうに自然の中にいる自分とは、自然と一体化した存在として無意識でいる、ということなのかもしれない。そんな、自然との距離のとり方、それが、とても東洋的な思考方法なのかもしれないと思った。

 「伝統の森」での仕事を進めながら、改めて「生きた森」について考えるようになった。森に生かされる人、人に生かされる森、その相互の関係の中に「生きた森」といえるものがある。太古の時代から、人は自然とともに生きてきた。布もその恵みの一つと言える。伝統の織物を生み出していた村をまわりながら、そこで暮らしていた人々とそれを支えてきた自然環境、もしくはそこにあったはずの自然環境の存在を知り、生きた森の意味を、より深く知るようになった。それは人と自然との、双方向の持続した相互関係であった。

 知り合いのフランス人の人類学者氏と、議論したことがある。議論というよりは、わたしからの質問であったのだが。その核心は、ヨーロッパ的な思考方法では自然をどう捉えているのか、という簡単な問いだったのだが。学者氏曰く、自然と人間は全く別の次元に属しており、いわば川を挟んで異なる岸にある、逆に言えば同じ岸に立つことはないという。森は森でしかない。だから、わたしが自然の再生とその融合という前提を、「伝統の森」プロジェクトの中で考えているそれ自体が、西欧的視点では、そもそも生まれて来ることはない、と。

 その話を聞きながら、改めて、わたしは軽いカルチャーショックを受けた。自身の無学を恥じながら、自然をときに人間の管理の対象としてしか捉えない、その思考はどこからくるのか、とあらたな疑問がふつふつと湧いてきたがそれは横におき。改めて、自然を対立物として捉え、有機的な共にある存在ではない、とはっきり言われてしまった。自然との調和と融合、それが生きた森の姿と考えてきた。じつはそれは、とても非西欧的思考、アジア的思考なのだと知った。グラグラ、頭が揺れる。

 人間の存在が自然よりも優位にあるという前提で、自然を管理の対象物としてとらえる。管理できる、もしくはされた自然とされていない自然。彼女は人類学の研究者で、アジアに長く暮らしている。その違いも十分に理解し、比較できるはず。

 しかし、あえてそれも、これまでの一般的な常識ともいえる。わたしが、西欧的・アジア的と二元的において、その相違と対立として考えること自体が、じつはとてもヨーロッパ的思考なのだと彼女と話しながら気がついた。時代は激しく変化している。そしてこれまでの人間と自然という二元的対立ではなく、個々の存在をランダムに、多様な価値の存在がいま生まれ始めている。それはあらたな融合を望んでいるのではないだろうか。

 対立と混沌、そして融合。対立から融和、これが歴史の大きな流れといえる。いま、起こり始めている、時代の変化としてもいい。それは、これまでの西欧的思考だけではない、アジア的な人と自然の融合に関心をもつ人たちが、アルテのドキュメンタリーに関心をもつた人たちとしていることの理由になのだと。そしてそれが、カナダのバンクーバーミュージアムでのわたしの講演に集まってくれた人たちのなかから、沸き上がってきた大きな拍手の意味であるように思えてきた。

 南国の椰子の木の木陰から昇る朝日を浴びながら、シエムリアップでコーヒーを飲むところから始まるわたしの毎日を撮影していたドイツのテレビクルーたちが、わたしに問いかけてきた疑問も、じつはそのことなのではないか。

 そんな、とてもクレイジーなわたしにとって、自然を取り戻すことで、ぬくもりのある布も取り戻すことができると考える。それこそが、「ぬくもり」を感じることができる自然との融和である。

更新日時 : 2009年12月20日 14:46

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